沖縄の「この場所」に、なぜ橋を作らないのか?

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八重山諸島を結ぶ架橋構想は1968年に提案され、当時の経済振興計画の一環として地域開発の転換点を迎えた。技術的な挑戦や環境への影響を乗り越える中で、石垣島と西表島を結ぶ橋がもたらす輸送革命とその後の観光・産業発展の可能性は、今なお地域経済に大きな影響を与えている。

官民連携で進展した海上道路構想

石垣島(画像:写真AC)
石垣島(画像:写真AC)

 この論文で注目すべき点は、1968年に石垣市の石垣喜興市長が「石垣島・西表島を結ぶ海上道路建設に関する意見書」をまとめたことだ(参考文献として示されているが、今回の調査では発見できなかった)。これは単なる「あったらいいな」という程度の架橋計画ではなかった。

 架橋に向けた動きは、官民ともに着実に進められていたようだ。復帰後の沖縄海洋博に先立つ1972(昭和47)年1月、沖縄海洋博八重山誘致推進協議会は、海上道路などの事業を政府に要請することを決定している。『八重山毎日新聞』1972年1月8日付けの記事によれば、海上道路を含む四つの構想が報じられ、構想は次第に拡大していた。

・海上道路の建設
・石垣島と竹富島間に人工島を造成し、海洋レジャーセンターを設置
・人工島に国営海洋研究所を誘致
・人工島に熱帯こども園を設置

 その後、1975年に開催された沖縄海洋博は、1971年に復帰記念事業として企画された。当時、開催地は未定で、八重山地域も候補地として検討されていた。この構想は、その後の沖縄海洋博開催に向けて示されたものであろう。ただし、現存する資料が限られているため、海上道路を含む具体的な構想の詳細は明らかではない。

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