大阪はなぜ「ため池」だらけなのか? 1平方kmあたりの密度「全国2位」の納得理由
古代大阪を潤した水利システムの謎
注目すべきは、このため池の「築造技術」だ。狭山池は、金剛山系を流れる天野川と三津屋川の水を、東西に伸びる直線の堤でせき止めている。その堤には樋管が設置されていて、水量を管理できる高度な仕組みが取り入れられている。築堤には
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「敷葉工法(しきはこうほう)」
と呼ばれる技術が使われていて、植物の葉や枝、樹皮などを何層も敷き詰めて土を積み上げる方法だ。こうした高度な技術が早くから存在していたことが、現在の大阪府に多くのため池がある理由になっている。
では、なぜこの技術が現在の大阪府一帯に存在していたのか。敷葉工法は、中国の江南地方で始まり、朝鮮半島を経て日本に伝わったものとされている。そして、この技術が伝わった地理的な条件こそが、大阪の古代からの繁栄やため池を含む高度な水利システムの発展を理解するカギになるのだ。
では、大阪の地形的な優位性とは何だったのか。それを知るためには、大阪の地形の変遷を追う必要がある。
現在の地形図を見ても、大阪平野はわずかな高地を除いて広大な低地が広がっている。しかし、古代の大阪平野の地形は現在とは大きく異なっていた。かつて、大阪湾は現在よりも内陸深くまで入り込んでおり、生駒山の麓近くまで大きな入り江、つまり河内湾が広がっていた。そして、そのなかに
「上町台地(現在の大阪市中央部を南北に走る、標高20~25mの細長い台地)」
と呼ばれる細長い台地が、まるで半島のように北へ突き出していた。
この上町台地の北側にあった砂州は時代とともに北へ延び、縄文時代中期には淡水化が進み、弥生時代には河内湖となっていた。この河内湖には、北から淀川、南から大和川が大量の土砂を運び込んでいたため、湖は徐々に埋まっていった。そして、弥生時代後期から古墳時代前半にかけて河内湖は縮小し、その跡地に河内平野が形成されていった。
こうして、河内湖の縮小にともなって形成された低湿地帯は農業に適した環境となり、稲作が盛んに行われるようになっていった。