大阪はなぜ「ため池」だらけなのか? 1平方kmあたりの密度「全国2位」の納得理由
河内湖の洪水対策とその成果
『日本書紀』の仁徳天皇11年には、次のような事跡が記録されている。
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「十一年夏四月戊寅朔甲午、詔群臣曰「今朕視是國者、郊澤曠遠而田圃少乏、且河水横逝、以流末不●。聊逢霖雨、海潮逆上、而巷里乘船、道路亦泥。故、群臣共視之、決横源而通海、塞逆流以全田宅」
11年の夏、4月17日、天皇は群臣に詔を出して言った。
「今、この国を眺めると、土地は広いが田んぼが少ない。また、河の水が氾濫し、長雨が続くと潮が陸に上がり、村の人々は船に頼らざるを得ず、道路は泥に埋まってしまう。群臣はこれをよく見て、あふれた水を海に流し、逆流を防いで田や家が浸からないようにしなさい」
これは、河内平野を流れる川の流路を変え、農地を開発したことを示す事跡だと考えられる。上記の記述に続いて、次のように書かれている。
「冬十月、掘宮北之郊原、引南水以入西海、因以號其水曰堀江」
冬の10月、宮の北部の野を掘り、南の水を引き入れて西の海に流し込み、その水を「堀江」と名付けたのだ。
この堀江とは、「難波堀江(なんばのほりえ)」と呼ばれる運河のことだ。これは、前述の上町台地を東西に貫通する運河であった。この運河が開削されたことにより、上町台地の北にある砂州によって妨げられていた河内湖の排水が改善され、洪水や高潮の危険が低下した。その結果、河内湖の水量が安定し、周辺の農地開発が容易になった。
難波堀江の開削は、同時に「難波津(なにわのつ)」と呼ばれる港湾施設の整備にもつながった。難波堀江が内陸と海を結ぶ水路として機能することで、難波津は古代西日本の中心的な貿易港としての地位を確立した。
現在までに難波津の明確な遺跡は見つかっていないが、『日本書紀』の継体天皇6年12月、斉明天皇6年5月の記述からは、この地に諸国の使者を迎える館が設置されていたことがわかる。この難波津は西へは瀬戸内海を経由して九州や朝鮮半島へ、東には河内湖や淀川、大和川を経由して畿内各地を結ぶ交通の要衝として機能していたのである。