大阪はなぜ「ため池」だらけなのか? 1平方kmあたりの密度「全国2位」の納得理由

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大阪府には1万1102か所のため池があり、1平方キロメートルあたりの密度は全国で2位だ。降水量が全国平均を下回る中、農業用水を確保するために古代から多くのため池が築かれてきた。これらのため池は歴史的にも重要な水利システムの一部となっている。特に狭山池は日本最古のため池で、先進的な技術「敷葉工法」が使われている。地形や水利の発展が、古代大阪の繁栄を支えてきた。

交易と農業が生んだ力

仁徳天皇古墳と電車(画像:写真AC)
仁徳天皇古墳と電車(画像:写真AC)

 古代畿内における政治権力の形成については、長い間議論が続いてきた。

 これまでの主流な見解は、奈良盆地に勢力を持つヤマト政権が河内平野に進出したというものであった。しかし近年の考古学的発見や文献の再解釈によって、河内平野を基盤とする独自の政権(いわゆる河内政権)が成立し、そこから勢力を拡大したという説が有力になってきている。この河内政権は、応神天皇の時代に始まり、仁徳天皇の時代に大きく発展したと考えられている。

 河内政権の力の源泉は、

・地理的優位性を生かした交易
・豊かな農業生産

であった。特に重要なのは、仁徳天皇の時代に実施された大規模な土木工事である。難波堀江の開削や茨田堤の築造などは、単なる治水事業ではなく、政権の存立基盤を強化する重要な国家プロジェクトだった。これらの事業は、水系の支配を通じて農業生産を安定させ、水上交通路を整備することで交易を促進する役割を果たした。つまり、これらの土木工事は河内政権の経済基盤を強化し、政治的影響力を拡大するための戦略的な取り組みだったのである。

 この地域が古代の首都機能を果たしていた期間は想像以上に長い。仁徳天皇の時代、すなわち4世紀後半から5世紀前半にかけて、難波高津宮が上町台地に置かれたとされる。その後、6世紀末から7世紀前半にかけて政治の中心が飛鳥に移ったが、645年の乙巳の変(大化の改新)を経て、652年には孝徳天皇によって再び大阪平野に遷都が行われている。

 難波高津宮の正確な位置は不明だが、難波長柄豊碕宮は現在の大阪城の南に位置していたことがわかっており、一部は現在の難波宮跡公園となっている。特筆すべきは、古代において複数回にわたり皇居が上町台地周辺に置かれたことである。この立地選択は、難波津を中心とする交易圏の重要性を如実に示している。

 このように、大阪平野が古代から首都として選ばれ続けたのは、その地理的優位性と、それを生かした経済的繁栄があったからだ。そして、その繁栄を支えたのは、前述の治水事業や農地開発である。ため池などの水利施設の発展は、古代国家の戦略と密接に結びついていたのである。

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