深谷駅になぜ急行が停車したのか? 国鉄への圧力が生んだ“我田引鉄”の実態、憎めない昭和の利権政治家「荒舩清十郎」をご存じか

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深谷駅急行停車は、1966年に運輸大臣の荒舩清十郎が、自身の選挙区の利権を優先し、国鉄に圧力をかけたことがきっかけで起きた。この件について、メディアは「我田引鉄」と批判し、荒舩の信頼性は大きく損なわれた。この件は公共の利益と政治家の自己中心的な行動の対立を示しており、今でも政治における倫理の重要性を訴える教訓となっている。

急行停車も少ない利用者

1963年頃の深谷駅周辺の航空写真(画像:国土地理院)
1963年頃の深谷駅周辺の航空写真(画像:国土地理院)

 こうして辞任はしたものの、10月1日にダイヤ改正は予定通り実施された。深谷駅では念願の急行停車が実現したが、行事はなしで自粛ムードのスタートとなった。

 ところが、この停車にもかかわらず、利用者は全く増えなかった。読売新聞1966年10月31日付朝刊では、

「荒船急行止めてはみたが 半分は乗客ゼロ」

という見出しが付けられ、惨めな状況が報じられている。利用が伸びなかった理由は次の通りだ。

「朝8時59分発の上り「第一信州」に乗ると同10時17分に上野駅につくので、商用の人には、その前後の普通列車を利用するより便利。それでも急行で1時間18分、普通列車より14分早く着くだけ」

 このわずかな時間差は下りでも同様だった。その上、当時の急行料金は二等が100円、一等が220円だったため、利用者は限られてしまう。真偽は不明だが、市役所がサクラを乗車させているといううわさも流れるほどだった。

 実際には複数の疑惑が重なった結果、荒舩は急行停車問題で運輸大臣の座を失った男として歴史に名を刻むことになった。その後、1970(昭和45)年には衆議院副議長に就任したものの、後援会の旅行中に発生した舌禍(ぜっか。言葉によって引き起こされるトラブル)が原因で、1972年に再び辞任を余儀なくされた。

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