深谷駅になぜ急行が停車したのか? 国鉄への圧力が生んだ“我田引鉄”の実態、憎めない昭和の利権政治家「荒舩清十郎」をご存じか

キーワード :
, ,
深谷駅急行停車は、1966年に運輸大臣の荒舩清十郎が、自身の選挙区の利権を優先し、国鉄に圧力をかけたことがきっかけで起きた。この件について、メディアは「我田引鉄」と批判し、荒舩の信頼性は大きく損なわれた。この件は公共の利益と政治家の自己中心的な行動の対立を示しており、今でも政治における倫理の重要性を訴える教訓となっている。

選挙区利益誘導の舞台裏

荒舩清十郎が生を受けた秩父市の高篠地区(画像:秩父市)
荒舩清十郎が生を受けた秩父市の高篠地区(画像:秩父市)

 この事件の中心人物は、運輸大臣の荒舩清十郎(あらふね せいじゅうろう)だ。彼は1907(明治40)年に埼玉県秩父郡高篠村(現秩父市)で生まれ、地元の荒川治水問題がきっかけで政治家を志すようになった。

 村会議員を皮切りに、県議に進出し、1946(昭和21)年の衆議院選挙では日本自由党公認で初当選した。その後、彼は公職追放の憂き目に遭うが、1952年に追放が解除されると、政界に復帰。埼玉3区を地盤にして、連続12回の当選を果たした。

 荒舩の政治姿勢は地元に密着しており、選挙区の初盆には線香を届け、婦人会には茶菓子代を提供するなど、地元の人々への支援を欠かさなかった。さらに、老人会には手ぬぐいを配り、支援者をヘルスセンターに招待する慰安旅行も行っていた。そのため、地元では

「何を頼んでもやってくれる」
「どんな陳情にも耳を傾けてくれる」

と信頼を得ていた。こうした地元密着の姿勢が、我田引鉄事件の伏線となっていく(荒舩の姓は、新聞記事などでは「荒船」と表記されることがある。しかし、正しくは「荒舩」である。引用以外の本文では、「荒舩」で統一する)。

 1966年8月1日、第一次佐藤栄作内閣が内閣改造を行い、荒舩は運輸大臣に指名された。これは彼にとって7回目の当選で初めての入閣となった。

 就任後すぐに、荒舩は地元のための露骨な利益誘導を始めた。その内容は、10月1日の国鉄ダイヤ改正で高崎線・深谷駅に一日上下2本の急行を停車させることだった。9月3日に国鉄が新しいダイヤを発表すると、メディアはこの利益誘導を猛烈に報じ始めた。

 9月4日の朝刊では、

「荒船さん急行止める 就任とたんに実現 選挙区へ“大臣のひと声”」(朝日新聞)
「高崎線に政治ダイヤ 荒船運輸相ツルのひと声選挙区に急行止める」(読売新聞)

という見出しで報じている。朝日新聞によると、荒舩は国鉄に圧力をかけたとされている。

「(注:国鉄は)大臣から、深谷停車のほか選挙区内の新駅設置など三つほどの「注文」を受けた、という。大部分は技術的にも営業上も早急な実現は無理なものだった。しかし「みんなケるわけにもいかない」(国鉄幹部の言葉)ということで、比較的やりやすい深谷停車だけは希望に応じることになり、国鉄は急いで改正ダイヤを手直ししたらしい」

 この記事には「“どうして悪いんだ!”憤然と腕組む荒船さん」という見出しがあり、和服姿で腕を組んだ荒舩の写真も掲載されている。記者が政治的圧力ではないかと問いかけると、荒舩は

「国鉄に頼んだだけ」

と述べ、工業団地ができた深谷市には急行が停車する必要があると語った。また、読売新聞では彼が記者に「一つくらいオレのいうことを聞いてくれてもいいじゃないか」と語ったことも報じられている。

全てのコメントを見る