新幹線が停まるのに、埼玉「本庄早稲田駅」がいまいち栄えていないワケ 開業20年なのになぜか
駅実現の裏側
![本庄早稲田駅(画像:OpenStreetMap)](https://merkmal-biz.jp/wp-content/uploads/2024/06/240628_waseda_02.jpg)
本庄市では上越新幹線の計画が発表される前後から、新幹線駅誘致に向けた運動を始めている。しかし、実現はしなかった。それでも、本庄に新幹線駅ができれば、埼玉県北部だけでなく、群馬県南部の利便性も高くなるとして、県境をまたいで熱心な活動が続いた。1989(平成元)年には、埼玉県・群馬県の31市町村で
「上越新幹線本庄新駅設置促進期成同盟会」
が発足している。しかし、JR東日本は高崎、熊谷それぞれとの駅間が約20kmとなるため運行技術的に難しいと難色を示した。
一転、実現にこぎつけたのは、当時の土屋義彦埼玉県知事と早稲田大学の運動だった。土屋知事は
「県南北の地域格差是正」
を持論としており、本庄市に新幹線駅をつくることで是正が実現できると期待していた。早稲田大学は、1962(昭和37)年に本庄に土地を購入しキャンパスを設置、1982年には付属校の早稲田大学本庄高等学院を開校している。当時の奥島孝康総長は、早稲田キャンパスの改革など、キャンパス内の再開発を強化していた。その一環として、本庄キャンパスの強化ももくろまれていた。
このふたつの要素が、本庄早稲田駅が実現した理由だった。『朝日新聞』2004年3月14日付朝刊では、このふたりの力が大きく作用したことを、包み隠さず報じている。
「(土屋知事が)「旧知の間柄」と広言する松田昌士JR東日本社長(当時)と直談判し、中央政界とのパイプをフルに生かした交渉を展開。それを奥島前総長が大学院開設という形で後押しした」
土屋知事は、参院議員を経て、本来は「あがり」であるはずの参議院議長を務めた後に県知事に転身したという異色の経歴を持ち、巨大な政治力を持った人物として知られていた。
奥島総長もスポーツ推薦の導入や、PRを重視したともいわれる当時のトップアイドル・広末涼子の入学、大学業務のアウトソーシング推進など、大学の営利企業化を促進させた人物であった。この功罪両面を併せ持つふたりの政治力によって駅は実現にこぎつけたのである。