「人力車夫」の知られざる残酷史! いまやイケメン&1000万プレーヤー登場も、かつては日本近代化の餌食となっていた

キーワード :
人力車夫は、日本における交通手段として歴史があるが、一方で社会的には低級な職業として位置づけられてきた。しかし、近年はインバウンドの増加により需要が急増し、高収入を得られる職業として見直されつつある。

失業者の受け皿

人力車夫の扮装(ふんそう)をした皇太子時代のエドワード8世 (イギリス王)。1922年。
人力車夫の扮装(ふんそう)をした皇太子時代のエドワード8世 (イギリス王)。1922年。

 人力車夫は、どういった地位に置かれてきたのか。『東京養育院月報』をひもとくと、度々、その話題が取り上げられている。東京養育院とは、1872(明治5)年に明治新政府が困窮者救済のために設けたことに始まる社会事業施設で、生活困難になった者などを収容する救済施設の役割を果たしていた(現在は、東京都健康長寿医療センターとして板橋区に所在)。

 その記事からは、当時の人力車夫の社会的立場が如実に表れている。1901(明治34)年の『東京養育院月報』第25号には、

・深川区霊岸島(れいがんじま)小学校
・下谷区万年小学校

に「市立貧民学校」が開校した記事が掲載されている。貧民学校は東京市が「特殊学校」として直営していた下層民に就学機会を与える学校のことだ。ここでは

「目下収容せる生徒の数は霊岸135名万年203名にして、多くは人力車夫、日雇稼、職工及び屑拾い等の子弟なり」

と記されており、この時点で既に人力車夫は貧困層の代表的な職業のひとつとして認識されていたのである。

 さらに、1905年の57号では、日露戦争(1904~1905年)の終戦をきっかけとした人力車夫の増加が社会問題として取り上げられている。

「平和克複後俄然閑散を告げ、其結果職工の解雇せらるるもの続々として出で来たりしより人力車夫の数は瞬に増加し、現に浅草区の如き去月中まで車夫の営業出願数日々平均1件位なりしもの、本月に入りてよりは非常に増加して日に5人内外の出願ありと云う、戦後に於ける失業労働者の処分の問題の如きは経世家の特に注意すべき事項となす」

平均して1日1件程度だった営業出願数が5件程度となっている。この記述から、人力車夫が失業者の受け皿となっていたことがわかる。

全てのコメントを見る