江戸は「坂」の多い町! 物資を運ぶ苦労は並大抵ではなかった【連載】江戸モビリティーズのまなざし(21)

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江戸の坂は、山の手と下町をつなぐ物流の要だった。23区内に800~900の名のある坂があり、特に山の手に集中。急勾配の坂は物資運搬に苦労し、赤土の悪路も難題。江戸時代の坂は現代の交通問題と似ており、当時の工夫と努力が伺える。

江戸の坂は大名屋敷に物資を運ぶ輸送路

『江戸名所図会』に描かれた江戸城外堀の牛込揚場(画像:国立国会図書館)
『江戸名所図会』に描かれた江戸城外堀の牛込揚場(画像:国立国会図書館)

 こうした地形的特徴から、江戸には両者を行き来するため多くの「坂」が生まれた。

 山の手の内にも多い。東京都地質調査業協会によると、23区の坂の60%が千代田区、港区、新宿区、文京区、つまり山の手にある。

そして、山の手は主に大名屋敷が立ち並ぶ「武家地」だった。歴史家の大石学は、江戸の坂は大名屋敷に物資を運ぶ運搬ルートとしても重要だったという。

 例えば現在も新宿区神楽坂に、「軽子坂」がある。江戸幕府が編纂した地誌『御府内備考』は、この坂についてこう記している。

「軽子坂は揚場(あげば)より船に積みし来りしものをはこぶ軽子これ坂下に多くつどいて、山の手への通いとする坂なり」

 船荷を荷揚げする「揚場」が江戸城の外堀にあり、そこに「軽子」と呼ばれる人足たちが集まり、山の手に運搬する仕事に従事していた。つまり、軽子坂とは人足に由来する名称だった。

 歌川広重が描いた『江戸名所図会』が、神楽坂下にあった牛込揚場を描いている。回り道して平たんな道を造れば荷物の運搬はラクだが、物流は経済活動を支えるためスピード重視だ。そこで、

「あえてショートカットできる道 = 坂」

が、江戸の各地に造成されたのだ。江戸の経済活動に坂は不可欠だった。とはいえ、江戸時代の道は現在のようにアスファルトではない。土である。さぞかし歩きづらかったはずだ。ましてや当時は車もない。荷車に積んで人力で運んだ。急峻(きゅうしゅん)な坂では困難がともなっただろう。

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