大阪・堺市「LRT計画」はなぜズッコケたのか? 市民不在で進み、市民によって葬られた“残念結末”を振り返る
市民ニーズとのズレ

LRTの具体化が加速したのは、2007(平成19)年にシャープが臨海部に大規模な液晶パネル工場の建設を決定したことがきっかけだった。
これにより、工場へのアクセス需要が見込めるようになり、東西鉄軌道計画は急速に前進していく。しかし、この計画は、市民が求めていた市内移動を円滑にする路線とは、まったく異なるものだった。ここに、老朽化が進み存続の危機にひんしていた阪堺線の再生問題が絡んでくる。
阪堺線の堺市区間(7.9km)の1日乗降客数は、1965(昭和40)年の約5万4100人から2005年には約6800人まで激減しており、阪堺電気軌道は大阪市区間を残して堺市区間の廃止を検討するまでに至っていた(『毎日新聞』2006年12月13日付朝刊)。
これに対し、堺市はLRTの事業者公募に応じた南海電気鉄道グループの提案を受け、2010年度開通予定のLRTとの相互乗り入れによって阪堺線の存続を図ることを決めた。こうして当初からズレていた市民ニーズと行政の思惑が、阪堺線の再生問題を機に奇妙な形で合体してしまったのである。
本来、堺市で長らく求められていたのは、
「JRと南海の鉄道駅とをつなぐ路線」
だった。この目的を達成するには、阪堺線を東西に延伸するのがもっとも現実的なプランだったはずだ。
ところが、それが臨海部の開発を目的とした東西鉄軌道計画と合体してしまった。こうして、市民が長らく求めていた路線計画は、都市開発や事業者の事情に引きずられる形で肥大化の一途をたどっていくのである。
計画の肥大化によって、事業費は巨額になった。市の試算では、東西鉄軌道の概算事業費は総額約425億円に上るとされた。内訳は、2010年度末の開業を目指す早期開業区間が約85億円、延伸予定区間が約280億円、阪堺線へのLRT乗り入れに伴う整備費が約60億円だった(『朝日新聞』2009年2月3日付朝刊)。