日本の貨物航空会社はなぜ失敗するのか? 佐川急便G「ギャラクシーエアラインズ」の記憶、モーダルシフト推進で再考する
貨物航空会社の挑戦

モーダルシフト(自動車による貨物輸送を、環境負荷の少ない鉄道や船舶に転換すること)の流れにおいて、航空輸送の必要性はますます高まっている。にもかかわらず、過去においては、国内線で貨物専門をうたった航空会社は一様に失敗に終わっている。この背景には何があるのか。
国内線初の貨物航空会社は、1991(平成3)年に設立された日本ユニバーサル航空である。同社は
・JAL
・日本通運
・ヤマト運輸
が共同で立ち上げた企業である。新会社の設立は、増大する貨物需要と当時深刻化していたドライバー不足という問題への対応策として合意に至った。
日本ユニバーサル航空はJAL所有のB747Fを使用し、羽田と新千歳空港間を1日2往復するスケジュールで運航を開始した。開業当初、同社は将来的に
・新千歳
・羽田
・関西
・北九州
という、四つの主要空港を結ぶ日本縦貫ルートを運行するとしていた。
当時の物流業界では、貨物量は右肩上がりで上昇しており、貨物航空会社が市場において成功する可能性が高いとみていた。専門誌『CARGO』の1991年3月号では、今後の航空貨物輸送の展開について次のように予測している。
「縦貫ルートが実現すると、国内線でもフレイター(注:貨物専用機)による輸送時代が到来し、国内貨物輸送は21世紀に向け、国内物流の幹線輸送として大きく飛躍することになる」
1991年10月、羽田~新千歳の就航後、11月には名古屋~新千歳への運航も始まった。同社が競走馬の空輸を行ったことも話題になり、初期の事業展開は順調であった。しかし、前評判にもかかわらず、同社は翌1992年9月には運休を余儀なくされた。
その原因は、バブル経済の崩壊にともない貨物取扱量が減少したことだとされている。バブル景気のなかで設立された同社は、会社設立直後に起こった景気後退による需要減に耐えきれず、早々に見切りをつけられたのである。