「高齢者を敬え」「常に空けろ」 ネットの“優先席”論争はなぜ異常なほど白熱するのか?
公共輸送機関を利用する人にとって、優先席は身近な話題だ。普段から譲ったり譲られたりすることはあり、優先席には座らないと決めている人でも、優先席を巡るやり取りを見ていて、思うところがあるだろう。
「合理化」「攻撃」「投影」

例えば、空いている優先席を空けておくべきか、それとも座ってよいかという議論を見ても、
「必要とする人の側から「譲ってくれ」とはいいづらいだろうし、譲ろうにも外見から必要性を判断できないこともあるので、座らずに空けておくべきだ」
と主張する人がいる。一方で
「混雑時に座らないと余計なスペースを取って迷惑だし、バスでは座らないと車内人身事故のリスクが上がるので空いていれば座るべきだ」
と主張する人もいる。
中立の立場から見ると、これらの主張はいずれも「ごもっとも」であり「必ずこうだ」と決められるものではなく、両方の考え方を踏まえて、状況に応じた適切な判断をするべきことに見える。しかし、自分は「必ずこうだ」と決めている人からしてみれば、反対の意見によって自分の意見を否定されたと感じてしまう。
自分の意見を否定されるのは、ストレスである。私たちの心は、ストレスを感じると、ストレスから心を守るための
「適応機制」
という仕組みを働かせる。適応機制にはさまざまな種類があるが、優先席に関するコメント欄(あるいは公共輸送機関の優先席付近)では主に
・合理化
・攻撃
・投影
が起きているように見える。
「合理化」は、自分の主張の欠点を認めずに、社会的に認められそうな理由を探すことである。優先席に関するコメントには
「以前譲ったら「年寄り扱いするな」などといわれて嫌な思いをしたから譲らない」
などの経験談が多く書き込まれている。次も同じようなことが起きるとは限らないので、これを譲らない理由にするのは無理があるが、書いている本人は、自分の意見を否定して「譲れ」と主張する人たちに対して反論することで、心の安定を取り戻そうとしている。