世界最高性能だった日本の「自動織機」 豊田佐吉・津田米次郎という先駆者を再訪する
完全なる自働織機を目指した佐吉

佐吉の夢はもっと高い所にあった。それは完全なる自働織機である。
織機の構造は簡単にいうと、送られてきた縦糸を交互に持ち上げ、その間に横糸を送るための杼(ひ。シャトル)を通すことで1枚の織布に仕上げるというものだった。しかし糸の長さは無限ではなく、それが尽きたり切れたりした場合にはいったん機械を止めて補給しなければいけなかった。
横糸が切れた場合に杼を止めると、同時に織機自体も停止させる機構は最初の豊田式木鉄混成自働織機から装備されていたものの、そこから先は困難な道でもあった。
1903(明治36)年、佐吉は横糸が切れた場合でも織機自体を止めることなく横糸を巻いた杼を交換することができる自働杼換(ひがえ)装置を考案、世界初という無停止杼換式自働織機である豊田式鉄製自働織機(T型)を商品化することに成功した。
その後は、T型の基本的な構造に改良を加えた新型機を1905年から1906年に掛けて豊田式三八年式織機と同三九年式織機として商品化する。
一方、同じ頃もうひとりの先駆者だった津田米次郎のもとには新たな人材が開発に加わった。米次郎の遠縁で16歳年下の津田駒次郎である。駒次郎は少年の頃から米次郎の作業を見つつ機械全般に深い造詣を蓄えていた人物であり、米次郎もそんな駒次郎を頼もしく思いながらの起用だった。
豊田式自働織機は、三九年式織機に磨きを上げる形でその後も進化を重ねていった。もちろん佐吉が目指した完成形には至らず、1924(大正13)年に至って決定版というべき豊田式G型自働織機が完成を見た。
G型自働織機はT型以降の各型と同様に無停止杼換式自動織機となっていたが全てに渡って機構的な刷新が図られており、縦糸・横糸ともに切れた場合には自動停止機構が盛り込まれていたほか、織機自体の安全姓を高めた構造、数十台の同型機を高速で連携運転させるためのより高い信頼性の確保、織り上げる織布の品質を高めるための各部精度の向上などが計られていた。