世界最高性能だった日本の「自動織機」 豊田佐吉・津田米次郎という先駆者を再訪する
歴史に名を遺すふたりの技術者
産業革命において重要な役割を果たした機械といえば、蒸気機関と織機(しょっき。織物を織る機械)だ。産業革命とは市場の拡大による工場制手工業から機械制大工業への変革で、1760~1770年代に英国で始まり、19世紀前半にはヨーロッパ各国に広がった。
織機は特にこの両者が合わさったいわゆる力織機の登場によって高品質な織布が大量生産できるようになったことは、後に多くの国で新たな産業構造を生み出し、それは日本も例外ではなかった。
力織機(動力で動かす織機)が考案され商品化されたのは1785年の英国で、実業家のエドモント・カートライトによる画期的な技術革新だった。産業革命が欧米より大幅に遅れて訪れた明治期の日本において、独自設計による力織機の考案とその実用化も明治期のことだった。
そしてここでは、ふたりの優れた技術者が業績を残す。すなわち
・津田米次郎
・豊田佐吉
である。
米次郎は1880(明治13)年には木綿織物用の水車駆動力織機の試作案を完成させたといわれているが、実用品としての商品化にまでは至らなかった。1862(文久2)年生まれの米次郎がまだ18歳のときである。
もう一方の豊田佐吉は1867(慶応3)年生まれ。米次郎が力織機の開発にいそしんでいたとき、彼はまだ少年であり故郷の父親の元で大工見習いをしていた。
1890(明治23)年、23歳の豊田佐吉は完全オリジナル設計の豊田式木製人力織機を完成させ特許を取得した。しかし時代は既に蒸気動力こそが先進であり、佐吉は引き続き研究開発にいそしみ、1896年には豊田式木鉄混製自働織機(自働は当時の表記、以下同様)を完成させた。
一方、津田米次郎が絹織物用の力織機を完成させたのは1900年だった。豊田式は基本的には木綿織物用であり、米次郎のものは絹織物と用途は異なっていたが、いずれの織機はその性能も高く、ともに続いて市場投入された改良型とともに明治大正期の日本の織物産業の発展に大きく貢献した。
ちなみに米次郎と佐吉は年齢も近くお互いに旧知の間であり、ともに叱咤(しった)激励し合う仲でもあった。