相鉄はかつて「国防」に関わっていた? 背景にあったのは会社を支え続けた「砂利販売業」だった

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相模グループはかつて砂利販売業と大きな関わりがあった。その砂利は国防にも貢献してきた。

大きな利益をもたらした砂利採取業・販売業

JR相模線(画像:(C)Google)
JR相模線(画像:(C)Google)

 相鉄は1943(昭和18)年に神中鉄道と相模鉄道が合併して社名を相模鉄道とするが、現在の相鉄本線は神中鉄道が敷設した路線だ。神中鉄道と合併した相模鉄道の沿線は軍事施設が点在していた。それを理由に、合併翌年に旧相模鉄道の路線だけが国有化される。現在、同路線はJR東日本の相模線となっている。

 神中鉄道と旧相模鉄道は、どちらも相模川に近い場所を走っていた。そのため、相模川で砂利を採取し、それを販売した利益で鉄道事業を支えていた。

 砂利の採取業・販売業が鉄道事業を支えられるほどのビジネスになるのか。現代に生きる私たちからすると、不思議に思うかもしれない。しかし、1923(大正12)年に関東大震災が発生したことで砂利は建材として脚光を浴びることになった。

 それまで、多くの建物は木造だった。明治になってからオフィスや官庁などの建物は、レンガ造りなどが増えていった。しかし、1891(明治24)年に岐阜・名古屋一帯で起きた濃尾地震により、レンガ造りが地震に弱いことが判明。関東大震災がダメ押しとなり、震災後に再建された高層建築はコンクリート造りが中心になった。

 コンクリートはセメントと水、そして骨材と呼ばれる砂利を混ぜることで生産される。つまり、関東大震災によりコンクリート需要は一気に急増した。神中鉄道と旧相模鉄道が手がけた砂利の採取・販売は、東京・横浜を復興させることにも、自社の経営にも貢献した。

東京の発展を陰で支えた玉電

東急田園都市線(画像:写真AC)
東急田園都市線(画像:写真AC)

 相鉄の前身となる神中鉄道と旧相模鉄道の砂利採取・販売業は、東急田園都市線の前身でもある玉川電気鉄道(玉電)も業務のひとつにしていた。玉電は多摩川から砂利を採取し、発展が著しい東京都心部へと運んだ。

 玉電によって運ばれた大量の砂利が、東京の建物の耐震と耐火を向上させ、同時に高層化させた。玉電の砂利輸送がなければ、東京の建物は高層化できなかったことだろう。つまり、玉電は

「東京の発展を陰で支えた存在」

でもある。

 相鉄の砂利採取・販売業は、その後もグループ会社によって続けられていった。戦災復興や高度経済成長を支える役割を果たしたが、1964(昭和39)年に河川環境の悪化を理由に相模川での採取は全面的に禁止された。

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