環状2号線が全通! 計画決定から苦節76年、最後の最後で足を引っ張った「豊洲移転問題」という病理

キーワード :
, ,
12月18日、東京都都心部と臨海部を結ぶ環状2号線の最後の区間となる新橋―築地間が開通。これにより、環状2号線が全通を果たした。

12月18日に全通

環状第2号線(画像:東京都)
環状第2号線(画像:東京都)

 12月18日、東京都都心部と臨海部を結ぶ環状2号線の最後の区間となる新橋―築地間が開通。これにより、環状2号線が全通を果たした。

 東京都をグルリと取り囲む環状道路は、環七や環八が有名だ。その一方で、環六・環五という言葉を聞くことはない。しかし、環七・環八があるのだから、もちろん一から六も存在する。

 今回完成した環状2号線は、1946(昭和21)年に都市計画決定された。戦後復興期にあたるタイミングだったことから、連合国軍総司令部(GHQ)が道路整備を指示したとの俗説もいまだ根強い。しかし、マッカーサーは環状道路の計画図を見て、

「戦勝国みたいで、敗戦国に不釣り合いだ」

と反対した。

 反対者の名前が回り回って俗称となるのは皮肉な話だが、いずれにしても環状2号線は都市計画決定から全通までに76年を要したということになる。しかし、それはあくまでも都市計画決定からの起算年数にすぎない。実際は、それ以前から環状道路が立案され、実現に向けて動いていた。

環状道路を計画した後藤新平

後藤新平(画像:国立国会図書館)
後藤新平(画像:国立国会図書館)

 東京に環状道路計画を立案した人物で、もっとも有名なのは後藤新平だろう。1923(大正12)年に関東大震災が起き、東京は灰じんに帰した。帝都・東京を復興するべく、政府は帝都復興院という特命の部署を新設。内務大臣と兼任で帝都復興院の総裁に後藤が就任する。

 それ以前、後藤は南満洲鉄道の総裁を務めるなど鉄道に深い知見を有していた。後藤は鉄道だけではなく道路の重要性も認識しており、つまり交通インフラが都市を発展させることにいち早く気づいていた政治家でもあった。

 帝都復興院総裁として後藤がプランニングした環状道路計画は、議会から

「予算が莫大(ばくだい)すぎる」

といった反対が相次ぎ、修正に修正を重ねる。修正を重ねるたびに予算は縮減し、当然ながら環状道路計画も描いた通りではなくなっていった。関東大震災の復興事業により、東京の環状道路計画が明確になったわけだが、実はその萌芽(ほうが)ともいえる道路計画は明治半ばにも議論されていた。

 明治新政府が発足すると、江戸に藩邸を構えていた各地の代表たちは次々と領国へと戻っていった。そのため、東京はさながらゴーストタウンと化す。それでも新政府の面々によって、銀座煉瓦(れんが)街をはじめとする都市計画が打ち出されていった。こうして東京は少しずつにぎわいを取り戻していく。