環状2号線が全通! 計画決定から苦節76年、最後の最後で足を引っ張った「豊洲移転問題」という病理

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12月18日、東京都都心部と臨海部を結ぶ環状2号線の最後の区間となる新橋―築地間が開通。これにより、環状2号線が全通を果たした。

東京の都市改造を掲げた芳川顕正

芳川顕正(画像:国立国会図書館)
芳川顕正(画像:国立国会図書館)

 明治半ばになると、官民双方から新しい時代に即した東京を求める声が出るようになる。内務省はまちづくりを検討する市区改正審査会を立ち上げ、素案を練った。市区改正審査会は市区改正委員会などと名前と役割を変えながら、東京の将来像を議論していった。

 ここでいう市区改正の市区とは、東京23区の区や武蔵野市・三鷹市といった市のことではない。市区改正の市区を現在の表現に改めれば、都市という意味に相当する。つまり、市区改正とは明治時代における都市改造を意味し、1884(明治17)年に東京府(現・東京都)知事の芳川顕正(あきまさ)によって起案された。

 芳川以前にも東京の都市改造を掲げた知事はいたが、芳川の発案により市区改正が議論されるようになり、道路・鉄道を軸にした都市計画が練られていった。当時の東京は、皇居の東側に繁華街が集中していたこともあり、現在の山手線に相当する鉄道路線を例外として、道路計画は日本橋・神田・上野に集中している。

 そして、宮城(現・皇居)を取り巻くように環状道路が配置された。この計画図を見ると、現在の環状1号線(内堀通り・永代通り・日比谷通りなど)・環状2号線に相当する道路がすでに見られる。

 東京の市区改正は芳川府知事ひとりが単独で練り上げた計画ではなく、例えば官民から委員を選出している。その委員のひとりに、渋沢栄一なども名を連ねた。これら市区改正でも環状道路の計画があったが、東京は時代を経るごとに人口が増えていき計画通りにまちづくりを進めることがかなわなくなった。

 都心の過密化を受け、政府や東京都は郊外化の重要性を認識。1918(大正7)年には福田重義が新しい都市像「新東京」を発表する。福田が描いた新東京にも環状道路が計画されていた。これは現在の環状7号線に相当する道路だが、福田案の環状道路は日の目を見ることはなかった。

 明治期・大正期、そして戦後に計画されながらも環状道路はことごとく却下された。未完のままだった道路計画が実現に向けて動き出したのは、1964(昭和39)年の東京五輪の影響が少なからずある。

 五輪における東京の都市改造では、首都高の整備が例として挙げられることが多い。しかし、東京五輪を契機に一般道の整備も大幅に進められた。ほとんど手付かずだった環状7号線を含む22路線は東京都からオリンピック関連街路と位置付けられ、一気に整備されていった。

 しかし、五輪開幕までに環状道路すべてを整備することはかなわず、環状7号線は1985年に全通を果たしている。

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