長野「公園廃止問題」を炎上させる感情的な人たち 「老人クレーマーvs子育て世代」という単純な図式を捨て、まずは公園の歴史を学べ
公園行政が複雑な理由

こうした役割上の分類が複雑な上、所管する部署が異なることも公園問題を複雑にしている要因だ。公園には主に国・都道府県・市区町村が管轄するものがあり、それらがどのように決まっているのかも判然としない。
東京都庁舎の麓に広がる新宿中央公園は1968(昭和43)年に都立公園として開園したが、1975年に新宿区に移管された。これにより公園の維持管理主体が都から区に変わったわけだが、そこに外見上の違いはなく、機能が変化したわけでもない。
また、前述した葛西臨海公園は水族園などが立ち並ぶレジャースポットとして知られる都立公園だが、海に近い砂浜一帯は葛西海浜公園と区別される。葛西海浜公園は江戸川区が管轄する区立公園とで、葛西臨海公園と葛西海浜公園には特に境界線などが引かれているわけではない。一般の公園利用者が気づくことはないだろう。
ここまで公園の複雑な部分を簡単に解説したが、どうして公園行政はこんなに複雑なのか。それは、オープンスペースという考え方が一般的に広まってきたのが明治以降で、そこから多種多様の機能を集約してしまったからだ。
環状道路を計画した後藤新平

1873(明治6)年、明治新政府は太政官(だじょうかん)布達により東京の上野・浅草・芝・深川・飛鳥山の五つを公園に指定した。これらは現在も住民たちに親しまれる公園となっているが、上野・浅草・芝・深川は寺社地を公園に転用している。
つまり、公園を開設するにあたり、政府が費用を捻出したわけではない。寺社地を転換して公園にした背景は、政府に公園を開設する資金的な余裕がなかったことも理由のひとつだが、当時はそれほど土地に対する権利や意識が強くなかったこともあるだろう。
その後、時代がくだるにつれてオープンスペースの重要性は高まっていく。例えば、1923(大正12)年に発生した関東大震災では、地震による家屋の倒壊で多くの死傷者を出したが、震災後に起きた火事ではそれを大きく上回る死傷者を出している。
震災による火の手は、旧江戸城の濠や日比谷公園によって延焼を免れた。震災後の復興計画では、減災・防火を目的にして道路の幅員を広げることや公園を各地に配置することが盛り込まれた。
計画を主導した帝都復興院総裁の後藤新平は、東京に隅田公園・浜町公園・錦糸公園の三大公園を開設。同時に環状道路も計画したが、これは復興予算が莫大(ばくだい)になるとの反対意見が噴出して頓挫した。
このときに後藤が計画した環状道路とは、現在の環状1号線(内掘通りや日比谷通りなど)から環状8号線にあたる。後藤が計画した環状道路は、戦後に再び整備計画が策定されたが、連合国軍総司令部(GHQ)によって阻まれた。その後も環状道路は断続的に整備が進められたが、関東大震災から約100年が経過しても完成していない。
帝都復興院は国の機関だが、東京市(現・東京都)でもオープンスペースを増やす政策が取り組まれている。東京市の公園課長だった井下清は、震災復興にあたって市内に小公園を多く開設した。これらは井下が開設を主導した小公園は復興公園と呼ばれるようになるが、復興公園は多くの篤志家(とくしか)から土地を寄付してもらって実現している。
復興公園は地域住民が震災時に避難できるような機能を持たせていたが、その多くは小学校の隣地に開設された。そのため、小学校の運動場機能も兼ねていた。逆説的にいえば、小学校のグラウンドという名目があったことで、井下が主導した復興小公園を多く開設することができたとえいる。