第1次大戦 ドイツ軍のフランス侵攻作戦計画はなぜ失敗したのか? 背後にあったロジスティクスへの認識不足とは

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ウクライナ侵攻以降、一般的に知られるようになった「軍事ロジスティクス」。今回は、第1次世界大戦シュリーフェン計画をめぐるロジスティクスについて考える。

シュリーフェン計画とは何か

アルフレート・フォン・シュリーフェンの生まれたベルリン(画像:写真AC)
アルフレート・フォン・シュリーフェンの生まれたベルリン(画像:写真AC)

 ロジスティクスの観点から近代の戦争の様相を変えた大きな転換点は、疑いなく鉄道の登場であった。大量の兵士や物資を絶え間なく最前線へと送り込め、しかも最前線で負傷した兵士を迅速に後送し治療を施すことが可能になったからである。

 そして、この鉄道を最も効果的に運用したのがドイツ軍であり、これは1860~1870年代の「ドイツ統一戦争」における同国軍の勝利の秘訣(ひけつ)のひとつとされる。

 クレフェルトの『補給戦』の第4章では「壮大な計画と貧弱な輸送と」という表題の下、ロジスティクスの観点からシュリーフェン計画の再評価が行われている。

 シュリーフェン計画とは、第1次世界大戦前のドイツ陸軍参謀総長アルフレート・フォン・シュリーフェンが、半ば絶望感を抱きながら立案したものとされるが、その計画の核心は、運用可能な軍事力の8分の7をヨーロッパ西部戦線での攻勢に集中し、さらには、その主力をルクセンブルグとアーヘンの間の地域に集中して、フランスを目標にベルギーとオランダに侵攻するというものである(実際には、オランダへの侵攻は見送られた)。

 その際、ドイツ軍は可能な限り英仏海峡に接近して機動することによりフランス軍左翼を突破または包囲し、その後、セーヌ河を渡河して巨大な「回転ドア」(バジル・ヘンリー・リデルハート)のような運動を行うことによって、パリ南西地域を通過するというものである。英仏海峡をまさに「袖でかすって」通過し、フランスの首都パリを大きく巻き込む形で攻撃しようとする計画であった。

 一方、軍事力の手薄な南部地域では、ドイツはムーズ(ミューズ)河の線(ライン)で待機し、自軍右翼の侵攻によって東側に退却すると予想されたフランス軍を撃滅することが期待された。シュリーフェンは、この計画の実施には約6週間が必要とされると見積もっていた。

計画の限界

小モルトケ
小モルトケ

 だが、周知の通りこの計画は完全に失敗、その後、第1次世界大戦は泥沼の塹壕(ざんごう)戦へと陥った。

 当初、その失敗の原因として、当時の陸軍参謀総長ヘルムート・フォン・モルトケ――「ドイツ統一戦争」での活躍で有名なモルトケ(大モルトケ)と同姓同名のおいで、小モルトケと呼ばれる――がシュリーフェン計画を大きく改変したからであり、シュリーフェンが構想した通りに実施されていれば絶対に成功していたはずであると論じられた。

 これに対してクレフェルトは、開戦時に鉄道を運用したドイツ軍部隊はもとより、鉄道線(ライン)そのものも敵の反撃に対して全く脆弱(ぜいじゃく)であった事実を指摘、さらには、シュリーフェン計画とは結局、ロジスティクス的思考ではなく軍事作戦(オペレーション)中心の思考の産物であった事実を指摘した。

 加えて、この章の結論としてクレフェルトは、

「シュリーフェンの思想を詳細に検討する限り、彼はその計画を発展させる際、それほどロジスティクスに注意していなかったようである。彼はドイツ軍が遭遇するであろう問題を十分に理解していたものの、組織的な努力によってそれを解決しようとはしなかった。仮に努力していたとすれば、シュリーフェンはこの計画が実行不可能であると結論を下したであろう」

との厳しい評価を述べている。

 ここでのクレフェルトの姿勢は、ロジスティクスを軽視したシュリーフェンの構想、そしてドイツ軍の構想を厳しく批判することで一貫している。

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