球団を経営した鉄道会社は全部で9つ! 阪急、阪神、南海、西鉄、近鉄、西武……残った3つは?
プロ野球の発展の裏にあった鉄道会社
日本のプロ野球の発展には鉄道の存在が不可欠だった――。現在は阪神タイガースと埼玉西武ライオンズのみだが、かつては同時に8球団に鉄道事業者が関わっていた時期さえあるのだ。
鉄道事業者として最初に球団経営に参入したのは、当時の阪神急行電鉄(阪急)だ。その創業者・小林一三は鉄道を基盤とし、沿線の都市開発、流通事業、観光事業などをトータルで行う私鉄経営のフォーマットを作り上げた経営者として知られている。阪急百貨店、映画会社の東宝、宝塚歌劇団も小林が興した事業だ。
小林は大正時代よりプロ野球のビジネス展開を考えていた。そして、1920(大正9)年に東京で生まれた日本初のプロ野球球団・日本運動協会が関東大震災(1924年)の影響で解散したことを知ると、球団をまるごと引き受け、現在の兵庫県宝塚市で宝塚運動協会として再結成させている。
ところが、これに続く新球団は生まれず、元号が昭和に変わると不況が深刻化することで、宝塚運動協会は1929(昭和4)年に解散となる。
プロ創設時、阪急が2度目の参入
日本のプロ野球は、1934(昭和9)年に大日本東京野球倶楽部(くらぶ)の誕生をきっかけに本格始動する。
1936年に結成された日本職業野球連盟に名を連ねたのは、大日本東京野球倶楽部改め東京巨人軍のほか7球団。そこに三つの鉄道系球団が含まれていた。阪神電気鉄道(阪神電鉄)が作った大阪タイガース、2度目のプロ野球事業に参入となる阪急による阪急軍、そして旧西武鉄道(現在の西武鉄道の前身のひとつ)が運営にタッチしていた東京セネタースである。
阪神はもともと、自社沿線に阪神甲子園球場を所有。阪急は1937年に同じく自社沿線に阪急西宮球場を建設。セネタースの本拠地は西武線の沿線にあった上井草球場だった。
そして1938年には、南海鉄道の新球団・南海軍が連盟に加わっている。1941年の太平洋戦争開戦後もリーグは継続するが、1944年に南海軍は改称を余儀なくされる。日本政府が推し進めた“戦時企業統合政策”により、南海鉄道は関西急行鉄道と合併して近畿日本鉄道(近鉄)となることで、球団名は近畿日本軍に変わるのだ。
「南海が近鉄に?」
このややこしい状況については、後ほど補足したい。
一方、東京セネタース改め「翼軍」は、1941年に名古屋金鯱軍と合併し大洋軍(大洋ホエールズとは無関係)となることで、旧西武鉄道とは疎遠に。その大洋軍が、1943年に、今度は福岡県の西日本鉄道(西鉄)に譲渡され西鉄軍となる展開もあった。なお、西鉄軍は戦争の激化もあり、わずか1年で解散している。