お台場に熱狂を生み出した「ゆりかもめ」「りんかい線」 功績の裏にあった政治的翻弄、パレットタウン観覧車消滅で振り返る
空き地が広がっていた“お台場”

しかし、1947(昭和22)年に東京22区が誕生。練馬区が板橋区から分離する形で遅れて誕生すると、埋め立て地の帰属問題が浮上する。なぜなら、埋め立て地がどこの区になのかが不明のままでは、区による開発を進めることができないからだ。
そうした事情もあり、国や東京都の施設が建設されることはあっても、13号地に区や民間の施設が建設されることはなかった。これが13号地の開発を遅らせた。1982年、ようやく13号地の帰属が決まる。これにより江東区・品川区・港区による計画が策定され、急ピッチで開発が進められた。
冒頭で触れたパレットタウンは1999(平成11)年に開業するが、それ以前の13号地には1974年に開館した船の科学館や1996年に完成したFCGビル(フジテレビ本社ビル)があった。しかし、商業施設は数えるほどしかなく、多くの人出でにぎわう現在のお台場からは想像できない荒涼とした空き地が広がっていた。
当時の空撮写真を見ると、驚くほど空き地が多い。東京都は開発を促進させるため、13号地をメイン会場にした世界都市博覧会(都市博)の開催を企画する。都市博の開催後、開場跡地は大企業によって開発が進められる予定が立てられていた。
都市博を企画した鈴木俊一都知事は、1979年に東京都知事に当選。就任直後から、都市問題として浮上していた東京都心部の過密を解消に取り組んでいた。当時の都庁舎は有楽町にあり、鈴木は行政機能を分散するべく、都庁舎の移転も検討。
有楽町に立地していた都庁舎は、1991年に西新宿へと移転した。しかし、それだけで都心部の過密が解消できるはずがなく、鈴木都知事は企業のオフィス分散も奨励。鈴木都知事は副都心と呼ばれる、東京の核となるエリアを指定する。13号地を含む湾岸エリアは臨海副都心と名付けられて7番目の副都心としての役目を期待された。
臨海副都心には1990年代から台頭する情報産業ビジネスを集積させることが企図され、それらの機能を果たすテレコムセンターと都市博開催を当て込んで計画が進められていた東京国際展示場(東京ビッグサイト)は、ともに1996年に開設されている。それでも広大な13号地には、多くの荒野が残っていた。都市博の開催は、臨海副都心の総決算ともいえるイベントになるはずだった。しかし、鈴木都知事在任中にバブルが崩壊。都市博は金の無駄遣いとの批判が強まる。
さらに鈴木都知事の計画が狂ったのは、鈴木都知事が退任した後の1995年に実施された都知事選だった。鈴木は元自治省事務次官の石原信雄を後継に指名。自民党や社会党、公明党なども石原を支持したが、石原は都知事選で落選。都市博の開催撤回を公約にしていた青島幸男が当選を果たす。そして、公約通りに青島都知事は都市博の開催を取り止めた。