意外と知らない? 「海水浴」を夏の定番レジャーにしたのは、鉄道会社だった!
私鉄も力を入れた海浜リゾート

現在も大磯は多くの人出でにぎわう海浜リゾートとして人気を博しているが、鉄道当局は全国各地に線路を延ばしたいと考えていた。そのため、さまざまな都市の近隣にある海水浴場をポスターやパンフレットで紹介し、そこに出掛けるように促した。
クルマはネットで買う時代!? トヨタのオンラインストアとは【PR】
例えば、茨城県方面の東海三浜は、東京圏からアクセスしやすい海浜リゾートとして盛んに紹介された。東海三浜(湊、平磯、磯浜。大洗も含む)のうち、大洗あたりは現在も人気の高い海水浴場として知られている。
新しい海浜リゾートづくりは、私鉄も力を入れている。京浜電鉄(現・京浜急行電鉄)は、1902(明治35)年に羽田・穴守に海水浴場を開設。さらに海の家も開設し、周辺を一大レジャースポットへと変貌させた。京浜電鉄は後に東京~横浜間で国鉄と乗客を奪い合うライバルになるが、この時点で京浜電鉄は線路を横浜まで延ばしていない。しかし、羽田・穴守に海水浴場を開設したのは明らかに官営鉄道への対抗心だった。
東武鉄道は浅草駅をターミナルにして、海のない北関東に路線を有している。沿線に海水浴場はないが、海水浴へと出掛けることを奨励して北関東から浅草駅まで乗ってもらうだけでもビジネス的にうまみがある。そこで東武は、鉄道省が逗子に開設していた海の家を宣伝した。
東武鉄道がPRした鉄道省の海の家は1929(昭和4)年にオープンしたもので、これは鉄道省が開設した初めての海の家でもあった。鉄道省は海の家を開設するにあたり、
・大磯
・鎌倉
・逗子
の3候補を選定。そこから逗子に絞ったわけだが、その選定過程においては地域間での誘致合戦が繰り広げられている。
そして逗子に海の家を開設すると、足を運ぶ海水浴客に便宜を図るべく、鉄道省は海の家所在する逗子駅発着の横須賀線臨時列車を運行した。ところが帰り(=のぼり)の横須賀線は逗子駅で席が埋まり、途中の鎌倉駅から乗車しても座ることができない状態だった。
鉄道省直営の海の家誘致合戦には負けたものの、鎌倉は多くの海水浴が訪れる海水浴場を擁していた。そのため、鎌倉の政財界関係者から鉄道省に対して、横須賀線の列車を増発するか、鎌倉駅から乗る乗客に配慮するように逗子駅で満席にしないよう要請を出している。
鉄道省の海の家は、行き帰りの足が確保されているという利便性もあって大盛況だった。こうして海の家第2弾の構想が持ち上がる。海の家第2弾は藤沢市からの申し入れもあり、鵠沼海岸に開設された。
鵠沼海岸は、小田原急行鉄道(現・小田急電鉄)が1929年に江ノ島線を開業させて以降地盤にしてきたエリアでもある。鉄道省が海の家をオープンさせたことで、鉄道省と小田急との間に熾烈(しれつ)な競争も起きている。