東急G創立100年 鉄道から不動産への原点回帰、「渋沢・五島イズム」の復活なるか

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100周年を迎えた東急。社会変化に応じて事業体を変えてきた同社は今後、鉄道事業をどのような展望を描くのか。

渋沢栄一から五島慶太へ

東急東横線(画像:写真AC)
東急東横線(画像:写真AC)

 2022年、東京急行電鉄(東急)は100周年を迎えた。節目の年を迎えるにあたり、4月10日に記念列車「東急グループ100周年トレイン」を運行した。その後も100周年を祝う記念イベントを断続的に催行している。

 東急は渋谷をターミナルに発展してきた関東屈指の私鉄として知られる。しかし、東急は最初から鉄道事業者として産声をあげたわけではない。東急の源流は、田園都市株式会社だ。同社は、渋沢栄一が最後の生涯事業として夢見ていた田園都市を実現することを目的にしていた。

 渋沢は、1915(大正4)年に田園都市株式会社を設立。同社が手がけた田園都市とは、イギリスの社会学者であるエベネザー・ハワードが提唱した理想の住宅地のことで、日本に田園都市を導入するにあたり、渋沢は日本版として改良を加えた。

 そのため、イギリスの田園都市と日本の田園都市は異なるのだが、田園都市株式会社は品川区・目黒区一帯に第1弾となる洗足田園都市を造成。しかし、第1弾の洗足田園都市は渋沢を十分に満足させるものではなかった。

 渋沢は洗足田園都市の完成を待たずして、第2弾のプロジェクトに取り掛かる。これが現在も豪邸が立ち並び、お屋敷街の代名詞的な存在となった田園調布だった。田園都市の邸宅は、大学教授・軍人・企業に勤めるサラリーマンが主な購買層とされた。

 現代から見ると、サラリーマンが主な購買層と聞くと安っぽいイメージが湧くかもしれない。しかし、当時は企業に勤めるサラリーマンは少数。定期的かつ安定的な収入があるサラリーマンは、今とは少し違った捉え方をされていた

 サラリーマンをターゲットにしていたこともあり、田園調布から官庁・オフィスへと通勤できるように鉄道が計画された。田園都市株式会社は、鉄道部門として目黒蒲田電鉄(目蒲電鉄)を立ち上げ、それが1922年に分離独立する。

 東急は、いわば渋沢の理想郷づくりの付帯施設として始まったわけだが、田園都市株式会社は田園調布の造成という目標を達成したことで役割を終えた。1928(昭和3)年、田園都市株式会社は子会社の目蒲電鉄に吸収されて幕を閉じる。

 渋沢が生み出した田園都市株式会社と目蒲電鉄は、東急の創業者・五島慶太によって引き継がれていく。