成田空港用地「強制収用」を検討! 「流血の記憶」か、「アジアの競争力」か? 89.7%で止まる拡張計画、その先にある判断とは

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成田空港は発着50万回体制を目前に、用地確保89.7%という壁に直面する。残るわずか10.3%が全体を止め、全面供用は1年以上遅れる見通しだ。強制取得か対話継続か――過去511件の対立の記憶を背に、日本の国際競争力を左右する判断が迫られている。

対立の起点

東峰神社(画像:写真AC)
東峰神社(画像:写真AC)

 成田で土地収用の仕組みを検討するならば、かつてこの地で繰り広げられた激しい対立の歴史を避けて通ることはできない。

 始まりは1966(昭和41)年7月4日、当時の佐藤栄作内閣による閣議決定だった。地元への事前の相談がまったくないまま、空港の建設地が三里塚・芝山地区に決められたことが、すべての混迷の出発点となった。翌1967年には反対派が新左翼勢力を受け入れ、運動は武装化の道をたどる。1968年4月には、条件付きで賛成する側と「用地売り渡しに関する覚書」を交わし、民有地の89%にあたる597haを守ったものの、残る地権者との間に横たわる溝は埋まらなかった。

 1971年には二度にわたる行政代執行が強行された。警察官3人が命を落とした東峰十字路事件が起き、民家の強制撤去が進められるなど、現場はさながら戦場の様相を呈した。

 1978年3月の管制塔占拠によって開港はずれ込み、同年5月20日にようやくその日を迎える。しかし、祝賀ムードとはほど遠かった。約1700本の火炎瓶が飛び交い、約3160本が押収されるという、日本の空の玄関口としてはあまりに異例の船出となったからだ。

 1978年から2019年までに発生した成田関連のゲリラ事件は、じつに

「計511件」

にのぼる。これは国内全体の半数を超える数字だ。こうした歩みが物語るのは、公共事業において地域との合意を軽視すれば、膨大な警備費や社会的な負担が長きにわたって続くという重い教訓である。

 かつての強引な進め方を政府が謝罪し、話し合いによる解決を誓った1990年代の円卓会議。その平坦ではない対話を経て、ようやく今の成田の姿がある。今回の土地収用法活用への動きは、積み上げてきた信頼と対話の土台を、根底から揺るがしかねない危うさをはらんでいる。

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