不屈の定期航路「稚内~サハリン」、もはや運航再開は絶望的 ウクライナ侵攻の余波はあまりにも大きかった

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北海道の稚内とサハリンのコルサコフを結ぶ定期航路は、2022年も運航再開の見通しが立っていない。ウクライナ侵攻の影響は経済交流にも及んでいる。

中止と再開が繰り返された定期航路

定期航路使用船舶のルート(画像:稚内市)
定期航路使用船舶のルート(画像:稚内市)

 この航路は、サハリン南部が日本領の南樺太だった1923(大正12)年に、稚内~大泊(現・コルサコフ)間にできた「稚泊連絡船」以来の歴史を持っている。宗谷本線が1922年、稚内まで延伸開業したことで設置された鉄道連絡船だった。

 しかし、太平洋戦争後にこの航路は消滅。その後1995(平成7)年に定期航路が復活してからは、中止と再開が繰り返されている。

 太平洋戦争後、閉ざされていた国境が再開したのはソ連末期の1989(平成元)年5月だった。墓参団を除いて、サハリンはそれまでなかなか入れなかったが、ペレストロイカの波によって観光客誘致が活発化。札幌の「タイムス観光」が「サハリン船舶公団」のフェリーを利用し、4泊5日のツアーを実現した。参加料金は18万6000円。9月まで11回の募集が行われ、ツアーは多くの便が満席になった(『朝日新聞』1989年5月30日付朝刊)。

 この時期から、北海道や道北の市町村によるソ連側との定期航路・空路開設に向けた動きは活発化。1990年9月には北海道が派遣した「日ソ共同ワーキンググループ道代表団」とサハリン州の交渉が実り、翌1991年にコルサコフ港を開放。1992年には定期航路を就航することが決まったのだ。

 この時期、北海道の北方貿易に向けた動きは夢が大きい。当時の関係者の間ではサハリンとの航路開設はあくまで手始め。その後は、サハリンから見て間宮海峡の対岸にあるシベリアのワニノと北海道との定期航路を開設することも構想されていた。ワニノは第二シベリア鉄道につながる都市で、ここにつながれば北海道との間に貿易が活発になると期待されていたのである。

定期航路実現も新たな課題ぼっ発

ワニノ(画像:(C)Google)
ワニノ(画像:(C)Google)

 ただ、チャーター便による運航は実施されたものの、定期航路の開設は思うように進展しなかった。なぜなら、ソ連崩壊後にロシア経済が悪化したからだ。結局、1995(平成7)年4月になり、日本側のナビックスラインなど海運6社と、ロシア側のサハリン船舶会社などの共同運航による定期航路がようやく実現した。

 この年の運航は4~9月までの期間限定で、小樽・稚内~コルサコフ間を計21往復することになっていた。ただ、この時点で既に問題があった。乗客は多かったにもかからず貨物が低調だったのである。

「航路開設前から貨物がどれだけ集まるかが懸念されており、来月1日に小樽から出港するフェリーの積み荷はプラスチック製の袋などわずか40t。その先の見通しは立っていない。しかし道内からサハリンに向かう第一便は訪問団などでほぼ満席となっており、その後の便も予約は順調。海運会社は「貨物がないのは予想していた。旅客の定員を満たせば、採算割れにはならない」と話す。当面は物流より人の橋渡し役を担う航路となりそうだ」(『北海道新聞』1995年4月27日付夕刊)

 物流を確保できないことが、航路を維持する上での最大の問題となった。物流はその後も増加せず、1997年に定期航路は中止となった。理由はロシア側の船体の改修費用問題とも言われた。

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