山手線の北側部分が、まるで「M」みたいな形になってるワケ
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都市開発と地形制約

当初の計画では田端から南西方向に延び、目白方面へ接続する予定だった。しかし、計画は途中で変更された。理由は住民の反対や、「巣鴨監獄」に近すぎるという意見が出たためである。地域住民の生活や安全を配慮する声が、都市設計に影響を与えた事例として興味深い。
さらに、将来駅周辺が発展し、駅を拡張する可能性も考慮された。切り通しの中にある目白駅より、平地で人口も少ない池袋駅を新設したほうが利点が大きいと判断された(伊藤暢直「日本鉄道池袋停車場設置経緯に関する考察(二)」『生活と文化:豊島区立郷土資料館研究紀要』第15巻)。都市計画者は、線路と駅の位置が将来的な都市発展にどう寄与するかを熟考したことがうかがえる。
当初、田端から目白方面には巣鴨と雑司ヶ谷に駅を設ける計画だった。巣鴨はすでに山手線の駅が完成していたが、雑司ヶ谷は鉄道としては空白地帯で、都電のみが通る地域であった。1909(明治42)年の地図を見ると、目白~巣鴨間を直線で通すには、既存の繁華な住宅地や街道を避けるのが困難であった。このような制約のなか、建設をスムーズに進めるために「遠回りしてでも避ける」という判断は合理的であり、都市の生活圏や商業圏を尊重した配慮でもあった。
池袋駅の建設により、山手線にはM字状の線形が生まれた。しかし、雑司ヶ谷を避けても、中山道や日光街道といった江戸時代から続く街道を横切る必要があった。この辺りは町屋が立ち並び、街道沿いには行き交う人々を相手にした商売が盛んであった。線路はこうした生活圏や商業圏を避けつつ、谷戸の地形にも対応して敷設されなければならなかった。都市計画者は、地形、既存都市機能、将来の発展可能性の三者を慎重に天秤にかけ、最適なルートを決定したのである。
このように、都市開発と地形制約は相互に影響し合い、線路敷設ではなく、都市戦略そのものとして山手線の線形を形作った。M字線形は、都市設計と技術の選択が交錯した歴史的証言として、今日に至るまでその姿を留めている。