人口わずか161人! 絶海の孤島「青ヶ島」、上陸困難が示す日本最少自治体のリアルとは

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太平洋上に孤立する東京都・青ヶ島。人口わずか161人、年間観光客は900~1800人にとどまる絶海の孤島は、1785年の天明大噴火で半数以上が命を落とした。半世紀を経て全島民の帰島が実現した、復興と生存の軌跡である。

孤島の生存と復興史

青ヶ島(画像:OpenStreetMap)
青ヶ島(画像:OpenStreetMap)

 そんな豊かな孤島が地獄と化したのは、1785(天明5)年のことである。

 江戸時代の火山活動は1780(安永9)年から記録されており、地震や池の水位の変化に始まり、噴火は激しさを増していった。1783年には農地が壊滅的な被害を受け、年貢が免除されるほどだった。

 いったん鎮まった火山活動は再び激化した。島民たちは島内にとどまることを諦め、八丈島の島役所に避難を願い出る。やがて八丈島から役人たちを乗せた船が青ヶ島に到着するが、上陸してみると島全体が火山灰に埋もれ、飲み水すら確保できない状況だった。

 救助船を準備するため、役人は乗せられるだけの島民を船に乗せて島を離れる。しかし船上にも火山灰が降り注ぎ、沈没の危機すら迎えた。孤島の生活と経済活動は一瞬にして停止し、住民は文字通り命懸けで脱出するほかなかった。

 この状況を知った八丈島の島役所は、1785年4月、3隻の救助船を青ヶ島に向かわせた。救助船が近づくと、既に島は破滅寸前であった。島全体が噴煙に覆われ、視界も悪かった。

 当時の船着き場である神子の浦は、わずかに玉砂利があるだけの小さな浜で、船を寄せるのも困難であった。神子の浦と集落を結ぶ道は急斜面で、しかも熱い火山灰が降り注いでいた。救助を待つ島民は船を見つけると混乱し、殺到した。

 救助船は200人あまりいた島民全員を載せることができず、半数以上は置き去りとなった。船はこれ以上の救助は不可能と判断し、再び島へ派遣されることはなかった。残された140人あまりの島民は噴火のなかで命を落としたと伝えられている。

 なんとか生き延びて八丈島に逃れた島民たちの生活は厳しかった。食糧事情は悪く、飢饉の危機が常にあったため、居候同然の暮らしを余儀なくされた。

 噴火が収まった青ヶ島への帰還は1789年から試みられたが、困難を極めた。水は不足し、無人島となった島にはネズミが繁殖していた。復興のために上陸した島民が食糧を持ち去られることも珍しくなかった。絶海の孤島であるがゆえに、物資や人を一度に送り込むこともできず、復興は遅々として進まなかったのである。

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