大泉学園駅なのに「大泉学園」という学校が存在しない理由──西武鉄道創業者が仕掛けた、壮大すぎる構想の顛末とは
学園の名を持ちながら、大学は存在しない──。大泉学園駅は、昭和初期に描かれた壮大な学園都市構想の象徴だった。誘致対象は一橋大学。駅まで新設されたが計画は頓挫。残されたのは地名と街路、そして住宅地としての発展だった。背景に見えるのは、堤康次郎の都市開発戦略と私鉄主導のモビリティ経済の胎動である。
学園都市の転機と展開

この移転は、現在でも歴史研究者の研究テーマになるほど謎が深い。国立の土地誘致を堤康次郎が主導したという説が存在するからだ。
『一橋大学創立150年史準備室ニューズレター』第2号(2016年3月)に掲載された歴史学者・田﨑宣義の論考『大学史と国立大学町』によれば、堤の誘致説は広く流布しているが、実際は大学の意向を受けて堤が動いた可能性があるという。いずれにせよ、地元の東大泉住民にとっては
「なぜか」
大学はやってこなかった。結果として、大学予定地は住宅地として再び分譲されることになった。
その後、別の学校の移転計画も浮上した。昭和初期には現在の東大泉3丁目付近に聖心女子学院の移転計画があった。建設用地の看板も設置されたが、結局建設されなかった。陸軍が「キリスト教の学校は好ましくない」として追い出したとの説もあるが、確証はない。
こうして大泉学園は、大学を持たないまま住宅地として発展していった。大学は来なかったが、1934(昭和9)年に開所した東映東京撮影所(東大泉2丁目)と戦後設立の東映動画スタジオにより、「映画とアニメの街」として栄えたことはよく知られている。
大泉学園は大学誘致に失敗したが、都市構想そのものが消えたわけではない。私鉄主導の先進的な住宅開発は、地域に定着した。その後、映像産業の集積や文化ブランドの形成へとつながっていく。
鉄道と不動産を一体で展開する都市形成は、当初の「学園都市」構想から「住宅都市」へと方向を変えた。だが、堤康次郎が描いた将来像の一端は、形を変えて実現したともいえる。
学園は実現しなかったが、その名は地名として残り、街の記憶や景観に今も深く刻まれている。