大泉学園駅なのに「大泉学園」という学校が存在しない理由──西武鉄道創業者が仕掛けた、壮大すぎる構想の顛末とは

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学園の名を持ちながら、大学は存在しない──。大泉学園駅は、昭和初期に描かれた壮大な学園都市構想の象徴だった。誘致対象は一橋大学。駅まで新設されたが計画は頓挫。残されたのは地名と街路、そして住宅地としての発展だった。背景に見えるのは、堤康次郎の都市開発戦略と私鉄主導のモビリティ経済の胎動である。

理想都市と大学誘致の挫折

大泉学園駅(画像:写真AC)
大泉学園駅(画像:写真AC)

 前述のとおり、駅は1924(大正13)年11月、東大泉駅として開業した。1933(昭和8)年3月に大泉学園駅へと改称された。

 当時の分譲地は規模が非常に大きかった。私鉄沿線各社が移住者を呼び込み、理想的な都市づくりを目指した時期である。売り出しは派手で、新聞やラジオで宣伝した。都内ではチンドン屋を走らせ、人を集める演出も行われた。分譲地内では多彩な催しも開催された。

 新座市立栄小学校付近には千坪の大広場が設けられ、万国旗が飾られた。女優・水谷八重子や歌舞伎役者・澤村宗十郎といった当時の大スターが招かれ、歌や踊りの豪華ショーが繰り広げられた。

 不動産会社の営業としては、規模の大きさが異例であった。さらに、当時の新聞には「大泉学園都市林間舞踏大会」も開催されたと記されている。

 しかし、肝心の大学誘致は実現しなかった。一橋大学の仮校舎は石神井町8丁目にあった。大学が所有するグラウンドに建てられており、移転は近いと誰もが考えていた。ところが、1933年9月、一橋大学は国立に新校舎を建設し、移転を決断した。

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