大泉学園駅なのに「大泉学園」という学校が存在しない理由──西武鉄道創業者が仕掛けた、壮大すぎる構想の顛末とは
学園誘致に賭けた大正の都市開発

前述の堤康次郎(1889~1964年)は、昭和期における代表的な実業家・政治家である。滋賀県の農家に生まれ、苦学の末に早稲田大学を卒業。軽井沢や箱根での別荘地開発を皮切りに、不動産、鉄道、ホテル事業を次々と手がけ、西武帝国を築き上げた。
政治家としても13回の衆議院当選を果たし、1953(昭和28)年には衆議院議長に就任。戦後の保守合同にも関与した。私生活では奔放さで知られ、多くの女性関係と多数の子を持った。「ピストル堤」と呼ばれる強権的な性格でも注目された。
開発力と経営手腕により、多くのリゾートや学園都市を形にした。一方で、強引さや豪奢な私生活により、毀誉褒貶の激しい人物でもあった。死後も西武グループを象徴する存在として語り継がれている。
そんな堤は自社で取得した大泉の土地に、東京商科大学の誘致を試みた。熱意は強く、地元の有力者を箱根温泉に招いて協力を求めたという。誘致を前提に、土地造成が進められた。
現在の練馬区立大泉中学校(東大泉4丁目)にある高台から、共栄住宅(東大泉3丁目)前の切り通しの土をトロッコで搬出。学園橋付近(大泉学園1~2丁目)の水田を埋め立てた。整備は着実に進行した。分譲地の設計も学園都市にふさわしいものだった。中心には幅広の大泉学園通りを敷設。周囲には碁盤目状の道路網が形成された。
利便性の確保にも手を抜かなかった。堤は、大学敷地と最寄駅との距離を懸念し、私費で駅を新設、寄付した。加えて、分譲地と駅を結ぶ乗合自動車や馬車の運行も開始した。
この駅設置には地元住民の尽力も大きかった。武蔵野鉄道は、当初、石神井から保谷まで直線ルートを計画していた。だが、地元の人々が「将来、必ず駅が必要になる」と訴え、土地を無償提供。路線を意図的に迂回させることで、駅の実現を後押しした。