「突走る愛にブレーキはない」──近藤真彦『ハイティーン・ブギ』が映す、現代社会が忘れた“身体の記憶”

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1982年に発売された近藤真彦の『ハイティーン・ブギ』は、移動の自由と青春の情熱を象徴する名曲だ。当時、ホンダやヤマハが牽引した若者向けバイク市場は社会的触媒となり、都市間移動の拡大と共に若者の感情を加速させた。しかし現代、原付免許取得者は20年で半減し、バイク文化は衰退。リモート化やSNS時代に失われた「速度と自由」を再考する視点を提示する。

原付免許半減が映す移動欲の変質

現在社会のイメージ(画像:写真AC)
現在社会のイメージ(画像:写真AC)

 では、現代の若者はどうか。原付免許の取得数は20年前から半減し、都市部の若者の多くは、バイクという選択肢そのものに接続しない。危険で高価、駐輪場所もない。法制度も非寛容化し、騒音規制や通行制限が年々厳しくなる。

 加えて、移動の必要性そのものが減退している。リモートワーク、SNS、デジタル地図、動画共有アプリ――どこにも行かなくても、何でも知れる時代。結果、「どこかへ行きたい」という欲望と、「誰かと一緒に逃げたい」という衝動は、日常的な機能から脱落し、ファンタジーの領域に閉じ込められてしまった。

『ハイティーン・ブギ』が今日においてノスタルジーではないのは、そこに描かれた移動と感情の同期性が、あまりに実感をともなっていたからだ。現代の若者には、かつて存在した“バイクで逃げる恋”そのものが存在しない。だからこそ、あの時代の疾走が、いま再び鮮烈に感じられる。

「俺はこわいもの知らず ケンカなら負けないけど」
「この愛を失くすことだけ こわいのさ」

これは暴走族の美学でもなければ、荒唐無稽なヤンキーの誇張でもない。むしろ、物語を自らの足と手で運転しようとする若者の不器用な意志表明である。そして、その物語の媒体が、バイクだった。

 自転車にはない速度、車にはない軽さと身体性、鉄道にはない柔軟な移動の自由――。バイクはそれらすべてを併せ持つ、個人の“拡張機関”だった。移動と感情が結びつき、意志と方向が結びつき、誓いと風景が結びついたとき、人間は初めて「誰かを倖せにする」という言葉を、現実の未来と結びつけることができる。

「ハイティーン・ブギ 未来を俺にくれ」
「ハイティーン・ブギ 明日こそお前を 倖せにしてやる」

バイクという不安定な乗り物の上で、愛を語ること。そこには、永遠の安定ではなく、一瞬の確信への賭けがある。そして、その不安定さこそが、恋と移動の本質を浮かび上がらせる。

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