多摩ニュータウンに「都内最古の陸橋」がある理由――戦後開発の街に、いったいなぜ?
国道拡幅による保存の危機と挑戦

危機は突然訪れた。国道20号の拡幅工事により、四谷見附橋は全面的に架け替えが必要となった。計画が具体化したのは1978(昭和53)年。高度成長期であれば、文化財としての価値よりも開発が優先されていたはずだ。しかし当時は、文化保護への関心が高まりつつある時期だった。
四谷見附橋は1972年に新宿区の彫刻工芸部門の文化財に指定されていた。単に古くなったから取り壊すという判断は、もはや時代と合わなかった。東京都は保存と再活用を両立させる方針を打ち出す。装飾性の高い欄干は新設橋へ転用。下部のアーチ構造は別の場所に移設することが決まった。
移設先に選ばれたのは多摩ニュータウン。新興住宅地に歴史的意匠を加えることで、地域の象徴として橋を再活用する構想だった。設置費用は住宅都市整備公団が負担し、完成後の維持管理は八王子市が担う。行政と事業主体が役割を分担し、計画は動き出した。
当時、明治・大正期の建築物を文化財として保存する意識は今ほど一般的ではなかった。今回の移設・保存は全国的に見ても先駆的な試みだった。橋は一度解体され、多摩ニュータウンに運搬された。再現は単なる組み直しではない。建設当時の図面をもとに構造を確認し、失われた橋灯の復元も進められた。
原則として当時の部材を活用する方針がとられた。その結果、コストは通常の橋建設の数倍に膨らんだ。加えて、四谷見附橋は無筋コンクリートにれんがを貼った構造であり、現行の安全基準には適合しない。新基準に準拠させつつ、オリジナル部材を最大限活用する設計が求められた。
それでも、無機質な都市景観に個性ある構造物を加えたいという関係者の強い意志がプロジェクトを支えた。工事は順調に進み、1993(平成5)年に移設完了。旧橋部材の84%を再利用する高い保存率を実現した。さらに、2代目となる新橋も旧橋の意匠を踏襲し、欄干やアーチにオリジナルのデザインを取り入れている。
現在、四ツ谷駅周辺に漂うレトロな雰囲気は、このような保存設計と再利用による成果である。旧橋は二つに分かれ、それぞれが都市の中でランドマークとして機能している。構造物の大規模移設と保存活用が両立した事例は、都内でも極めて珍しい。