駅ビルはいつから「おしゃれ」になったのか?――若者文化と高級ブランドが導いた商業空間の変貌

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駅ビルが“ただの通過点”だった時代は終わった──。1989年の国分寺エル開業を皮切りに、JRは商業施設の直営化とデザイン刷新を本格化。吹き抜け空間や高級ブランドを導入し、駅周辺の人流・文化・消費行動を大きく変えていった。その進化の起点と経済的インパクトを辿る。

中央線カルチャー発信地の進化

ルミネ立川(画像:写真AC)
ルミネ立川(画像:写真AC)

 中央線沿線で駅ビル建設が本格化したのは1980年代前半からだ。

 1981(昭和56)年には荻窪駅に「ルミネ荻窪」が開業。翌1982年には立川駅に「WILL」(現・ルミネ立川)、1983年には八王子駅に「ナウ」(現・セレオ八王子)がオープンした。こうしたなかで、前述の国分寺エルが特に注目されたのには理由がある。

 国分寺はもともと、吉祥寺・高円寺と並ぶ「三寺(さんでら)」の一角として、中央線文化の中心地だった。

 駅周辺にはジャズ喫茶や古本屋が軒を連ね、常に若者で賑わっていた。なかには大学を卒業しても就職せず、ブラブラ過ごしたり、店を開いて定住したりする若者もいた。そうした空気が独自の文化を形成していた。世界的なベストセラー作家・村上春樹も、作家デビュー以前に国分寺でジャズ喫茶「ピーター・キャット」を経営していたことが知られている。

 国分寺エルが登場する以前の国分寺は、若者にとっては居心地がよくても、生活利便性には乏しい街だった。

 再開発が進む現在とは異なり、当時の国分寺は雑然としていた。なかでも人の流れの中心だったのが北口の駅前通り、大学通り、西通りである。パチンコ屋やゲームセンター、喫茶店などが密集していた。

 学生向けの店舗は豊富だった一方、生活に不可欠なスーパーマーケットは、駅前の小規模な西友と長崎屋に限られていた。他に大型商業施設はなく、買い物面では不便さが残っていた。

 その状況を一変させたのが、南口にオープンした国分寺エルである。地下には丸井の食品スーパー「食遊館」が出店。人の流れは一気に南口へとシフトしていった。

 なかでも注目を集めたのが、単身者や核家族をターゲットにした少量パックの総菜だった。現在では一般的な商品だが、当時としては画期的なスタイルであり、瞬く間に地域住民のニーズをつかんだ。

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