埼玉・熊谷市――県北のド田舎に「駅前だけ大都会」が生まれた根本理由

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埼玉県北部の熊谷市は、昼間人口比率97.5%と高い定着率を背景に、駅前再開発で商業・行政・文化機能を集中。独自の都市モデルが人口減少時代に示す持続可能性と課題を探る。

“終点”だった熊谷駅

熊谷市の位置(画像:OpenStreetMap)
熊谷市の位置(画像:OpenStreetMap)

 熊谷市の歴史は古い。江戸時代には中山道の熊谷宿として、本陣や脇本陣が置かれ、庶民向けの旅籠や茶屋が軒を連ねていた。江戸時代末には、人口が3200人を超えていたという。1750(寛延3)年に始まったとされる「うちわ祭」は、今も町の伝統として続いている。

 明治維新後の1873(明治6)年には、熊谷町が県庁所在地に指定され、埼玉県北西部と群馬県の大部分を管轄する熊谷県が設立された。熊谷県は1876年に廃止されたが、この経験が地域の中心地としての自覚を深める契機となった。

 1883年、日本鉄道(のちの高崎線)が上野~熊谷間で開通する。当初は熊谷が終点だった。これにより、熊谷は北関東の玄関口としての地位を高めていく。

 もともと中山道と秩父街道の分岐点に位置していた熊谷は、交通の要衝として重要な役割を担っていた。鉄道の開通で、鉄路と水運の両方を活かせる集積地としての機能が強化された。

 当時の熊谷周辺では、養蚕や農業が盛んだった。生糸や小麦粉、染物などの地場産業も発展していた。そこに日本鉄道の開業が加わり、熊谷は一気に経済拠点としての地位を確立していく。

 拠点化がさらに進んだのは1901年。秩父鉄道が熊谷~寄居間を開業したことで、熊谷は秩父地方や荒川上流と関東平野をつなぐ中継地点となった。原材料の集積地としてだけでなく、物資を活用する産業都市としての展開も進んだ。日東製粉や片倉シルクなどの企業が、その象徴である。

 こうして熊谷は、秩父鉄道・高崎線・幹線道路・荒川水運という複数の交通手段が交差する拠点となった。この点こそが、周辺都市とのもっとも大きな違いである。

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