奈良が「オワコン」なんて誰が言ったんだよ(怒)

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世界遺産と古都の風情を擁しながら、なぜ奈良は“通過都市”であり続けるのか。観光資源の豊富さに反して、受け皿や戦略の不備が浮き彫りになる。京都との比較から、奈良観光の根本的課題を探る。

京都と奈良に分かれた投資判断

ニュース「『奈良の観光は、安い・浅い・狭い』マイナス面を三拍子で...こんな結論は誰が作った?奈良県観光戦略本部に聞くと」(画像:毎日放送)
ニュース「『奈良の観光は、安い・浅い・狭い』マイナス面を三拍子で…こんな結論は誰が作った?奈良県観光戦略本部に聞くと」(画像:毎日放送)

 この問いに対する興味深いキーワードを、MBS毎日放送が2024年5月18日に放送したニュースが提示している。「『奈良の観光は、安い・浅い・狭い』マイナス面を三拍子で…こんな結論は誰が作った?奈良県観光戦略本部に聞くと」というタイトルの報道で、奈良の観光は

・安い
・浅い
・狭い

とされ、そのイメージを形づくったのは奈良県自身であると指摘している。

 では、なぜそうなったのか。奈良市は1950(昭和25)年に「奈良国際文化観光都市建設法」により、国から国際文化観光都市として指定を受けた。これは奈良市を戦後の復興とともに、国際的な観光都市として発展させることを目指した政策的な位置づけだった。

 しかし、当時の国の財政事情は厳しく、観光都市への支援は後回しにされた。この法律は都市の性格を示す宣言的なものであり、実際の予算措置やインフラ整備への国庫補助はほとんどともなわなかった。さらに国は、観光都市よりも戦災復興都市の再建を優先する方針を変えなかったため、奈良市は指定を受けながらも大きな成果を得ることはできなかった。

 一方、同じ1950年に同法の指定を受けた京都市は、奈良市とは異なる道を選んだ。京都市は1947年に戦後途絶えていた観光政策の再建に着手し、1948年には観光局を設置。観光を都市の成長戦略として位置づけた。この早期の判断が功を奏する。京都市は

・東海道新幹線
・名神高速道路

の開通といった交通インフラ整備の波を的確に捉え、1965年には観光客数が2187万人を突破。高度経済成長の波に乗って、観光産業を急成長させた。京都市の特徴は、

「環境変化に応じた戦略転換の柔軟さ」

にある。1970年代には観光客急増による交通渋滞や環境負荷、いわゆる「観光公害」が深刻化したことを受け、1973年に全国で初めて「マイカー観光拒否宣言」を発出。観光客誘致一辺倒から、持続可能な観光都市への方針転換を図った。

 1990年代には、20年にわたる観光客数の伸び悩みに直面する。京都市は観光を産業として再定義し、1992(平成4)年に「21世紀(2001年)の京都観光ビジョン」を策定。観光を市民生活の向上や地域経済振興の中核に据える戦略を明確にした。

 2000年代以降も、京都市は観光振興基本計画を繰り返し策定。インバウンド対応や観光地マネジメント、持続可能性の確保にも注力してきた。批判はあれど、現在に至るまで観光行政と都市経営を一体で進め、発展を続けている。

 京都市の観光成功は、都市全体で観光を産業と位置づけ、

・政策
・インフラ
・人材

に対して一貫して投資し続けた結果だといえる。

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