公道カートではしゃぐ外国人!芸人ふかわりょうが指摘する、彼らへの「ぬかるんだ感情」とは?100件超の苦情!東京の未来と秩序を問う
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東京の街を疾走する「公道カート」は、インバウンド観光の新たな風物詩となった。しかし、そこには都市秩序との摩擦や、日本人が抱える「言語化されていない感情」が潜んでいる。2012年の運用開始以来、安全問題や交通ルール無視が増加し、東京の生活都市としての役割に新たな課題を突きつけている。
観光都市「東京」と生活都市「東京」

歴史を振り返ると、日本にもかつて「異物」が街を賑わせた時代があった。例えば、江戸時代の大道芸人や昭和初期のチンドン屋がそれにあたる。彼らは都市空間に突然現れ、人々の視線を集め、非日常を演出した。
チンドン屋は本来、広告目的のパフォーマーだったが、彼らの存在そのものが都市の風景として受け入れられ、庶民文化の一部となっていった。しかし、時代が変わるにつれて都市空間の機能が変わり、チンドン屋は姿を消していった。ただ、公道カートは、ある意味で
「現代のチンドン屋」
といえるかもしれない。彼らもまた、都市空間に突如として現れ、非日常を演出し、人々の視線を集める存在だ。
ただし、かつてのチンドン屋と決定的に異なるのは、公道カートが「外から来た異物」である点だ。チンドン屋は都市の住人によって生み出された文化だったが、公道カートはインバウンド向けのエンターテイメントであり、都市に住む人々が主体ではない。ここに
「よそ者が勝手に遊んでいる」
という感覚が生まれる。
重要なのは、東京が観光都市でありながら、生活都市でもあるということだ。例えば、パリやローマといった都市は観光都市としての色が強く、地元住民もインバウンドが街に溢れることをある程度受け入れている。一方、東京はビジネスと生活が中心で、彼らが主体になる都市ではない。
この点で、京都の住民がオーバーツーリズムに苦しんでいる現象と、東京の公道カート問題は本質的に似ている。どちらも、都市に暮らす人々とインバウンドの視点のズレが生み出す軋轢だ。