公道カートではしゃぐ外国人!芸人ふかわりょうが指摘する、彼らへの「ぬかるんだ感情」とは?100件超の苦情!東京の未来と秩序を問う
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東京の街を疾走する「公道カート」は、インバウンド観光の新たな風物詩となった。しかし、そこには都市秩序との摩擦や、日本人が抱える「言語化されていない感情」が潜んでいる。2012年の運用開始以来、安全問題や交通ルール無視が増加し、東京の生活都市としての役割に新たな課題を突きつけている。
「遊び」と「日常」の境界線崩壊

まず、公道を走る公道カートという存在が、都市景観にどのような影響を与えるのかを考えてみる。
日本の都市空間は、厳格なルールのもとで成り立っている。
・歩行者
・自転車
・自動車
・バス
・タクシー
といったモビリティの役割が、暗黙のうちに整理されている。しかし、そこに突然異質な乗り物が現れると、交通の秩序だけでなく、都市景観そのものが乱される。
例えば、渋谷のスクランブル交差点を横切る公道カートの列は、私たちにとって「都市の一部」として馴染んでいるタクシーやバスとは異なり、一種の
「異物」
として映る。しかし、インバウンドにとっては、それこそが東京らしい風景なのだ。この視点のズレが、私たちの感情に影響を与えているのではないか。
もうひとつのポイントは、公道カートが「遊び」と「日常」の境界を曖昧にしてしまうことにある。一般的に、都市には
・遊びの空間
・生活の空間
がある程度分かれている。ディズニーランドやUSJのようなテーマパークは、明確に遊びの空間として設計されている。しかし、公道カートはそうではない。
私たちが日常的に利用している道路が、突然「テーマパークの一部」として振る舞う。歩行者やドライバーにとっては、そこは生活の空間であり、目的地へ向かうための空間だ。しかし、インバウンドにとっては、その道路こそがアトラクションになる。
このギャップが、日本人の「ぬかるんだ感情」を生んでいるのではないか。
「ここはそういう場所じゃないはずなんだけどな……」
という無意識の違和感。それが、「悲しい」でも「寂しい」でもない、言葉にしづらい感情として表れる。