汐留vs大阪、汐留はなぜ「敗北」したのか? 国鉄跡地の再開発! 導線、組織…成功と失敗を分けた要因を考える

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国鉄清算事業団が抱えた「負の遺産」、汐留と梅田の巨大貨物駅跡地。2000年代、両地区は再開発の旗印のもと華々しく変貌を遂げた。しかし、2024年現在、明暗が分かれている。うめきたは「グランフロント大阪」が年間数千万人が訪れる一大拠点に成長。対照的に、汐留はオフィス空洞化と商業施設撤退が深刻化し、「都心のガラガラ施設」の烙印を押された。日本初の鉄道ターミナルと西日本の鉄道貨物輸送を支えた汐留と梅田に、なぜこれほどの差がついたのか。都市開発の光と影を追う。

歴史的遺産の再生 汐留・梅田の格差

うめきた公園(画像:写真AC)
うめきた公園(画像:写真AC)

 汐留と梅田は、どちらも19世紀から続く長い歴史を持つ駅である。汐留駅は、日本初の鉄道路線の起点である初代新橋駅として、1872(明治5)年に開業し、東海道線のターミナルとして、関東から関西、九州など西方への需要を支えた。しかし、1914(大正3)年に東京駅が開業した後、旅客ターミナルの機能を東京駅に譲り、汐留駅は貨物駅として再スタートを切る。

 一方、梅田貨物駅は、1874年に大阪駅で貨物取扱が始まり、その後鉄道の利用増加にともない、旅客と貨物の機能を分ける必要が生じ、1928(昭和3)年に梅田駅として開業する。当初、梅田駅は大阪駅と同一駅だったが、1934年には設備増強が行われ、大阪駅での貨物扱いが廃止され、梅田駅は独立した。

 汐留と梅田は、日本の経済や鉄道の発展とともに成長し、1959年には両駅間で初めてのコンテナ特急列車「たから」号が運行されるなど、貨物列車の歴史において欠かせない存在となる。

 しかし、トラック輸送の台頭などにより、貨車単位での荷物輸送が衰退し、代わりにコンテナ輸送が主流となる。東海道新幹線の整備で汐留駅が手狭になり、1986年に廃止され、1987年に国鉄が民営化されると、梅田駅も廃止の方針となり、両駅の敷地は国鉄事業清算団に引き継がれることとなった。

 東京と大阪の一等地に広大な敷地があり注目されたが、バブル景気の加熱により売却は延期され、その後、バブル崩壊なども影響し、汐留は数十年にわたって空き地のままとなり、梅田は縮小しながらも2010年代まで貨物駅の機能を保っていた。2000年代に入ると、ようやく両駅の再開発が始まり、汐留と梅田は大手企業が関わる大都市の一等地での大型プロジェクトとして注目され、大きな話題を呼んだ。

 しかし、再開発が始まって20年以上が経過した現在、両者には大きな格差が生まれてしまった。なぜそのような格差が生まれたのか、両者の歴史を追ってみよう。

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