大河ドラマ「べらぼう」で吉原が観光地化? 遊女、娼婦、芸者…「美化された歴史」の裏で聞こえる骨肉の叫び、「脱色」観光の危険性を考える
性差別と社会構造の影響

遊郭から話は少しそれるが、興味深い文章を最後に紹介する。これは神学者で、関西学院大学教授だった栗林輝夫氏(1948~2015年)が自著の「あとがき」に書いたもので、栗林氏の母親は芸者だった。1945年(昭和20年)に20歳だったことから、もし生きていればちょうど100歳になる計算だ。少々長いが、この文章をもって本稿を閉じる。昭和時代でもこの現状であった。
「私の母は世界恐慌後の昭和初頭の不景気時代、柳橋の芸者置屋に売られて、半玉として芸事をしこまれ、日本の敗戦に至るまで、そこにとどめおかれた。義務教育も鉄砲州にある夜間の尋常小学校で終えている。当時、疲弊した北海道や東北の農村の娘の多くは、下町の玉の井や洲崎の遊廓に売られて娼婦になり、母のように東京生まれで目鼻立ちもまずまずの、シャキシャキした江戸弁ができる娘は芸者屋に送り込まれたという」
「敗戦の時には母は二〇歳になっていたから、一本立ちとはいかないまでも、座敷に出て戦争成金や軍人の慰みものにされていたのは間違いない。実際母はこのことを恥じて死の直前まで父にも隠し続けていた。母は三十歳代で病死したが、死ぬ前に父を前にして「潔い体」でなかったことを赦して、どうか軽蔑しないでほしいと、あえぐように病床で告白した。彼女の葬儀が終わって、押し入れの奥の小さな包みのなかから、数枚の古びた写真が出てきた。そこにはあでやかな姿で踊っている、いや踊らされている母の姿がいくつも写っていた」
「芸者が芸を売る、世界にも稀な芸術家などというのは日本の男の嘘で、性の慰みものという本質は変わらない。母がそうした境遇に身を沈めたのは彼女自身の意志ではなく、まったくどうしようもない家庭の困窮のゆえだった。また女の性を商品化する男社会のゆえだった。私が興味というよりも骨肉の問題として、下積みの女であることの無念さ、女の性を慰みものにする社会にたまらない思いをもつのは、そうした事情による」
「だから性差別への闘いというとき私が主に考えるのは、戦前でいえば青鞜社に集まった進歩的女権運動でもないし、今の知的中産階層の女性たちのファショナブルなフェミニズムでもない。そういう運動や階層からも相手にされない女たちが抱えこんでいる辛さ、庶民や市井の女のカテゴリーにさえ入らない彼女たちの無念さである」