大河ドラマ「べらぼう」で吉原が観光地化? 遊女、娼婦、芸者…「美化された歴史」の裏で聞こえる骨肉の叫び、「脱色」観光の危険性を考える
「はとバス」が運んだ華やかさの裏側

実際、吉原では華やかな側面のみが利用されてきた歴史がある。典型的な例が、1958(昭和33)年から1998(平成10)年まで40年間続いた浅草・松葉屋の「花魁ショー」だ。
日舞の名取が本格的な花魁衣装(黒げた7.5kg、かつら7.5kg、衣装15kg)をまとい、「杯事」や「吸い付けたばこ」を披露するこのショーは、
「はとバス」
の「夜のお江戸コース」の目玉として組み込まれ、最盛期には年間約10万人を動員した。終了間際には惜しむ声が多数寄せられ、71台のバスが必要なほどの人気を博した。しかし、この花魁ショーは吉原の歴史の一側面を切り取った表面的な再現に過ぎなかった。
注目すべきは、このショーが吉原ではなく、浅草という既存の観光地で開催されていた点だ。単なる便宜的な選択ではなく、吉原文化を
「現地から切り離して消費する」
という方法論がそこにはあった。吉原という実際の場所との接続を断ち切ることで、歴史的・社会的文脈を排除し、純粋なエンターテインメントとして成立していたのである。こうした切り離しの手法は、
「困難な歴史と向き合うことなく文化的側面だけを享受する便利な手段」
だが、それゆえに本質的な理解から遠ざかる危険性を孕んでいる。『べらぼう』の遊郭描写も、複雑な社会構造を「悲劇の女性たち vs 欲望の社会」という単純な図式に落とし込んでいる。
第1話で話題となった裸の遺体描写には現役セクシー女優が起用され、
「リアルなセクシー女優を使った!攻めた!」
と評価された。しかし、この反応自体が江戸時代と現代の構造的連続性を示している。遊女の苦しみを演じる女優の労働環境や社会的立場は問われず、視聴者は「リアルでスゴイ」と消費するだけだ。今も昔も変わらないのは、性産業に関わる女性を
「一段下に見て消費する視線」
である。江戸時代の遊女も現代のセクシー産業従事者も「異界の住人」として距離を置いて眺め、その実態をエンターテインメントとして楽しむ構造が継続している。視聴者は「昔はひどかった」と思いながら、自らも同じ消費行為を無自覚に繰り返している。この矛盾に気づかないまま、歴史を現在から切り離して享受しているのが現状だ。
江戸文化の華やかさを前面に打ち出す姿勢は、より深い歴史理解を妨げかねない。