「軍事マニア」はなぜ劣化したのか? ミリタリー記事が「スーパーカー記事」に酷似する構造的理由! 性能至上主義&批評不在がもたらす「思考停止」のワナとは
ミリタリー記事は、数字の羅列と性能至上主義、そして批評の欠如という独特のスタイルを持つ。それは、かつてのスーパーカー記事の手法を引き継いだものだ。本質を問わず、高性能=優秀という単純化された評価軸が生まれ、やがて暗記の文化へと変質していった。では、なぜこうした形式が定着し、軍事趣味の思考を狭める結果を招いたのか。その背景を掘り下げる。
批評の不存在
第3は、批評を避けることである。
スーパーカー記事には批評はない。それぞれの車種の不利面や、商業的不振、必須となる有鉛ガソリンや、大量に発生する未燃焼成分による大気汚染といったネガティブな要素は一切触れない。
ミリタリー記事も同じである。兵器や自衛隊、防衛産業の問題は一切触れずに対象を全肯定する。広告記事との違いは一番最後に「PR」と書かないくらいだ。
“大人の事情”はある。人は圧力がなくとも動く。広告や取材便宜程度でも記事は肯定の方向に流れるものだ。
ただ、過ぎれば誤る。批判すべき内容も称賛するようになる。
19式軽自走砲の紹介記事がそれだ。判子で押したように「ウクライナでは大砲が戦場を支配している」「タイヤ式自走砲が活躍している」と評価したうえで「日本も導入は必要」と締める形である。陸自の予算要求をなぞった内容だ。
まずは環境の違いを無視した主張でしかない。ウクライナは大陸国であり大砲が重要な価値を持つ。国土も平坦でタイヤ式自走砲の価値も活きる。対して日本は海洋国である。主役は海空戦力であり、陸上戦力も離島防衛を優先する。大砲の出番は少なく、しかも自走砲となると使い道はない。
もともと陸自主張が誤っている。沖縄県民に「石油ストーブを買え」と勧めるようなトンチンカンだからだ。
だが、ミリタリー記事はそれを批判しない。逆にヨイショしているのである。