昭和45年、青ヶ島を揺るがした「ソ連船漂着事件」の教訓 僻地を悩ます交通インフラの遅れとは
1970(昭和45)年11月26日の18時過ぎ、東京都最小の自治体・伊豆諸島の青ヶ島にソ連船の乗組員が漂着した。この珍事を通して、交通インフラや通信環境の整備についてあらためて考えたい。
上陸した乗組員2人の素性とは

ここで問題となったのが意思疎通である。 なにしろ、人口の少ない青ヶ島にロシア語に通じた人はいない。なにより、周囲を黒潮に囲まれた島にロシア語が話せる人を呼び寄せるのは困難だった。
幸運だったのは、離島の青ヶ島でも、このときには電話が設置されていたことだった。当時、青ヶ島には都内につながる島内有線回線(限られた地域だけで掛けられる電話)が1本、郵便局に全国へつながる赤電話が1台。警察署に専用回線が1本整備されていた。
本土では、すでに各家庭に電話が当たり前に設置されていたのに比べ、極めて遅れてはいたものの、それでもないよりはマシだった。
この回線を利用して、派出所から東京の警視庁外事1課と電話をつなぎ電話の向こうから通訳してもらいながら、ようやく事情が判明。その結果、一人は生物学者で海流を調査していたと説明し、もう一人は船の機関士だということが分かった。
ただ、電話を用いての通訳のため、なかなか話は進まず、どういう意図を持って上陸したのかも分からなかった。
翌27日に海上保安庁の巡視船「しきね」が駆けつけ、ようやくソ連船との交渉が行われ「荒天のため、やむなく日本の領海に入ったが船員が好奇心から泳いで負傷し、島に上陸してしまった」という説明があったと伝えられている。
冷戦期という背景を考えると、これが真実か否かは判然としないが、海上保安庁は説明を受け入れ「荒天のため緊急入域したことが明らかになった」として退去を命じ、船が日本の領海外へ移動したことで、事件は解決をみた(「朝日新聞」1970年11月30日付朝刊などによる)。