三菱自動車が生んだ「マレーシア国民車」 いまや“中国の支援”で大躍進していた【連載】方法としてのアジアンモビリティ(5)

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急速に変化・成長する経済圏として、世界的に注目されているアジア。この地域発のモビリティ・アプローチが、今後の経済において重要な役割を果たすことはいうまでもない。本連載では、アジアにおけるモビリティに焦点を当て、その隆盛に迫る。

三菱自動車の技術協力

「X90」(画像:プロトン)
「X90」(画像:プロトン)

 もともとプロトンは、国民車構想を重要な国策として推進したマハティール政権時代の1983年に、政府の強力なバックアップによって設立された。

 ルック・イースト(日本に学べ)政策を掲げるマハティール政権の意向により、プロトンはマレーシア重工業公社(HICOM、現DRB-ハイコム)が70%出資し、三菱自動車と三菱商事がそれぞれ15%出資して設立された。

 1985年には三菱自動車の「ミラージュ」をベースに、マレーシア国産車第1号として「サガ」の生産が開始されている。マハティール政権が掲げる国産車の保護・育成という明確な方針のもと、税制面での優遇措置によって、プロトンは急速に国内シェアを拡大した。1987年には

「64.8%」

のシェアを獲得している。2000年には初の自主開発車「WAJA」の発売にこぎつけ、2004年2月には初の自主開発エンジンを搭載した「GEN-2」を発売した。

マハティール首相退陣の影響

マハティール元首相
マハティール元首相

 ところが、プロトンのシェアは2003年頃から急速に低下していった。プロトンの生みの親であるマハティール首相は2003年10月に退陣、アブドラ・バダウィ氏が新首相に就いた。これ以降、

「国民車メーカーを全力で守り抜く」

という政権の熱意は冷めていったように見える。

 しかも、プロトンにとって不運が続いた。まず、三菱自動車が北米事業の失敗などで巨額の赤字を出し、2004年3月にプロトン株式の全株を売却し、資本提携を解消してしまったのだ。さらに2005年1月には、三菱商事もプロトン株式が売却して資本提携を解消した。

 さらに、マハティール退陣後のマレーシアは、貿易自由化の波にあらがうことができなくなり、プロトンの経営は急速に悪化した。ASEAN自由貿易地域(AFTA)によって、マレーシアは自動車を関税削減・撤廃を迫られるようになったのだ。

 こうしたなかで、プロトンはフォルクスワーゲン(VW)やゼネラル・モーターズ(GM)との提携を模索する一方、2006年には再び三菱自動車との間で、開発・生産についての新しい協業提携に関する覚書を締結した。しかし、プロトンの不振は続き、2006年にはダイハツ、三井物産などとの合弁で設立された第2国民車メーカー「プロドゥア」に販売台数で抜かれた。

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