下関~釜山を毎日運航 関釜フェリーの知られざる日韓「真価」、関係悪化も乗り越えた歴史をご存じか

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四方を海に囲まれた日本だが、海外に向かう国際航路は意外に少ない。現在、5社が六つの定期航路を運航している。そのうち5航路は日韓航路である。なかでも注目すべきは、下関と釜山を結ぶ関釜フェリーだ。

充実した日韓航路

関釜フェリー(画像:関釜フェリー)
関釜フェリー(画像:関釜フェリー)

 四方を海に囲まれた日本だが、海外に向かう国際航路は意外に少ない。現在、5社が六つの定期航路を運航している。そのうち5航路は日韓航路である。なかでも注目すべきは、下関と釜山を結ぶ関釜フェリーだ。同じく毎日運航しているJR九州高速船(博多~釜山)がコロナ禍のため運休したのに対し、関釜フェリーの旅客便は運休したものの、毎日運航を続けた。

 下関が対韓貿易港となったのは1883(明治16)年だ。この年、日本政府は下関、博多、厳原(いづはら)の3港を貿易港に指定した。その後、日韓貿易量の増加にともない、1905年の関釜航路の開通によって定期航路が開設され、1910年の韓国併合後、関釜航路の交通量は増加した。この航路は栄えたが、太平洋戦争後、新たに建国された大韓民国との国交がなかったこともあり、消滅した。

 しかし、1950(昭和25)年に朝鮮戦争が発生すると、両国間の輸送が再び活発になった。これを受けて、下関では関釜航路の復活を求める声が強まった。当時、博多でも関釜航路の再開を求める陳情が活発に行われており、下関の危機感は高まっていた。

 そんななか、1953年に「下関関釜航路再開期成会」が結成され、陳情運動が始まった。この時点では、戦前のように国鉄の連絡船として再開することが目指されていた。

 しかし、日韓関係が極めて悪かったこともあり、再開は10年以上遅れた。

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