下関~釜山を毎日運航 関釜フェリーの知られざる日韓「真価」、関係悪化も乗り越えた歴史をご存じか
1973年に黒字化
しかし、新ルートは韓国一国を狙ったものだった。日本側は当初、損失を覚悟し、将校が2~3年間無給になることまで覚悟していた。毎日新聞の1969(昭和44)年3月5日付朝刊は、この会議で出た試算を次のように伝えている。
「関釜フェリーと釜関フェリーをプール計算して、年間2890万ウォンの赤字が出ることが見込まれた。収入は約2万5000人の旅客で9900万ウォン。乗用車4950台の積み込みで3564万ウォン、そのほか貨物郵便の積み込み代、毛布貸し代、払戻手数料など合わせて合計2億3501万5000ウォン。支出では旅客費の1485万ウォン、貨物費の978万ウォン、船員費の2574万ウォン。このほか船の維持、修理費など合計2億5740万ウォン。支出のほうが多いというわけだ」
当初は日本側1隻のみで週3往復しており、輸送量は少なかった。
1970年度を通じて、旅客の定員充足率は17%程度であった。乗用車は20%、貨物は13%と赤字経営が続いた。これが一転したのは、1971年に国鉄がコンテナ輸送を開始し、貨物の円滑な輸送体制が確立されてからである。
また、気軽に海外旅行ができる路線としてPRされたことで旅客数も増加し、1973年には黒字化した。当初、赤字から脱却するには5年かかると予測されていたため、貿易量は予想以上に伸びた。
以来、関釜フェリーは安定して存続している。コロナ以前は日韓関係の悪化で観光客の減少があったが、それでも毎日1便の定期便は破綻していない。多くの国際フェリー航路が短期間で消滅していることを考えると、この安定運航は驚異的だ。
毎日運航することで、航空便よりも遅く、コンテナ船よりも速く、航空便よりも大量の貨物を運ぶことができる。貨物の取り扱いも柔軟で、通常は入港日の1~2日前が締め切りだが、下関~釜山の場合は出港日の午前中が締め切り。釜山から下関の場合は、出港当日の16時までとなっている。また、関西・関東方面への輸入貨物は入港日の翌日に搬入される。