下関~釜山を毎日運航 関釜フェリーの知られざる日韓「真価」、関係悪化も乗り越えた歴史をご存じか
四方を海に囲まれた日本だが、海外に向かう国際航路は意外に少ない。現在、5社が六つの定期航路を運航している。そのうち5航路は日韓航路である。なかでも注目すべきは、下関と釜山を結ぶ関釜フェリーだ。
改善し始めた日韓関係
1960(昭和35)年4月の李承晩政権崩壊後、日韓関係は改善し始めた。これを受けて1961年11月、九州郵船が博多~釜山~下関~博多を4日サイクルで結ぶ三角航路を開設した。この航路には韓国企業も参入し、1963年からは大阪~神戸~関門(下関に1社、小倉に2社が寄港)~釜山という航路に変更されたが、戦前の航路に比べると規模は縮小された。
1965年12月の日韓基本条約批准後、ようやく路線の復活が現実のものとなった。なかでも1966年の下関韓国領事館開設は、将来の貿易拡大を見越した画期的な出来事だった。
1967年8月、東京で開催された日韓定期閣僚会議では、定期航路の復活が両国間の重要議題のひとつとなった。同年、下関市長に当選したばかりの井川克己は、水産会社経営で培った人脈を生かし、釜山市長との交渉を開始した。その結果、競合する博多よりも早く航路を再開することができた。こうして1968年8月、釜山~下関航路の復活が日韓定期閣僚会議で合意された。
日韓両国はこの航路を運営する新会社を設立した。井川は、日本初の長距離フェリーを設立した阪九フェリーの入谷豊州を新会社の社長に招いた。こうして誕生した「関釜フェリー」には、海運会社だけでなく、トヨタ自動車販売や宇部興産など韓国貿易関連の企業も出資した。
こうして1970年6月16日、釜山港から最初のフェリーが出航し、25年ぶりに両都市を海上で結ぶことになった。
しかし、航路復活を「政治案件」として優先させた結果、同社の経営は困難になることが予想された。戦前、関空フェリーの航路は、朝鮮半島を経由して中国に至る輸送網の一部だった。戦前は朝鮮半島は内地扱いで、日本と中国は旅券が免除されていたため、中国への渡航は現在よりも容易だった。