京成線「東成田駅」はなぜ“秘境駅”と呼ばれるのか? 成田空港の敷地内の謎に迫る
成田新幹線の断念

成田新幹線は、1971(昭和46)年1月に公表された「新幹線鉄道敷設基本計画」に盛り込まれており(成田新幹線のほか東北新幹線・上越新幹線の計画も明記)、日本鉄道建設公団によって1974年に着工にこぎつけた。
しかし、成田新幹線の工事は全くといっていいほど進まなかった。当時、成田空港では反対闘争が盛んに行われており、成田新幹線の建設予定地の沿線住民から反対の声が上がっていた。成田新幹線の目的は東京都心や首都圏へのアクセスだったため、沿線に駅は計画されていなかった。そのため、
「沿線に何のメリットももたらさない」
騒音を発生するだけの存在と考えられていた。
江戸川区をはじめとする沿線自治体では反対決議が相次ぎ、用地買収は進まなかった。沿線自治体の反対運動を象徴するのが、当時の千葉県知事・友納武人(1963~1975年)が難色を示す立場に転じたことだ。友野知事は成田空港建設の強制執行を許可した張本人である。その友納知事でさえ、沿線の反対運動が強く、成田新幹線の建設は難しいと立場を変えた。
成田空港は1978年に開港し、同年、東成田駅(当時は成田空港駅)も開業したが、成田新幹線は空港ターミナルなどの施設、一部の高架が建設されているだけだった。用地買収のめどもたたず完成はいつになるかもわからなかった。その後も、建設は進まず、1983年に政府は成田新幹線の建設凍結を発表するに至っている(1986年に断念)。
東成田駅には今も往時の姿が残っている。同駅はターミナルに乗り入れていないものの、空港の玄関駅としての風格を持っていた。地上から地下へと続く階段は、大勢の人が通れるように幅が広くとられている。地下コンコースの壁面には「曲水の宴」と呼ばれる幅8mの巨大なレリーフが訪日客を迎えている。コンコースは、スカイライナーの専用改札を収容するのに十分な広さもあった。
しかし、非常に不便だった。ターミナルはバスで行かなければならない場所にあった。成田空港は最大で1日136往復のバスを運行していたが、それでもわざわざバスで行くのはとても不便だった。