タイムズスクエアでおなじみ「新宿高島屋」 本当は駅ビルに入るはずだった! なぜ実行されなかったのか、歴史をたどる

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高島屋が新宿進出を模索した最初のときは「昭和20年代」だったことは、あまり知られていない。

地元から「デパートはたまらない」の声

新宿駅南口(画像:写真AC)
新宿駅南口(画像:写真AC)

 ところが、民衆駅の建設は利点ばかりではなかった。建設計画が浮上するたびに、行政も絡んで利権屋が暗躍することが状態化していたからだ。

 さらに、駅そのものが巨大な商業施設となるため、駅周辺にある既存商店が反対することも多かった。とりわけ都心部では、こうした大規模開発は汚職の温床ともなっていた。

 前述の鉄道会館は、その最たる事例だった。もともとこの計画は、外濠川を埋めた土地は東京駅八重洲口の駅前広場となる予定だった。それが突然、デパートの入る鉄道会館に計画変更された。これは、当時の安井誠一郎都知事(初代~3代)に絡む疑惑「安井都政の七不思議」のひとつとして、国会でも追及されることとなった。

 そうした前例もあったため計画は慎重に行われ、1953(昭和28)年に高島屋は「新宿停車場株式会社」の設立を請願するに至った。

 それでも地元に駅舎建設を報告したところ、大騒ぎになった。伊勢丹や三越はもちろんのこと、地元商店街からも

「駅舎はよいが、デパートができてはたまらない」

と反対の声が上がった。ついには「高島屋進出反対同盟」が結成され1954年には日本橋高島屋をデモ隊が取り囲む騒動も起きている。

 しかし、当時の新宿駅の駅舎は老朽化が著しく、建て替えは地元でも求められていた。そこで高島屋の進出に反対する一方、地元民による民衆駅の実現に向けた動きが見られるようになった。その中心になったのが「2代目 新宿将軍」と呼ばれた浜野茂である。

 浜野は当時、新宿一円に多くの土地を持っていた。初代は投資でもうけたが、2代目の将軍は、実業家として人望もあった。そこで地元では、浜野とその親戚筋で当時の法務大臣だった井野碩哉(ひろや)を代表として、1956年に「新宿ステーション・ミーティング・ホール株式会社」を設立する。これを見て、高島屋に協力的だった有力者も次々とくら替えを始めたが、それでも対立は続いた。

 対立は数年にわたって続き、全く駅舎ができる気配はなかった。そこで、鳩山一郎内閣で法務大臣だった牧野良三が調停に入ることになった。牧野が高島屋と縁が深くかつ浜野とも親交があるためだった。

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