タイムズスクエアでおなじみ「新宿高島屋」 本当は駅ビルに入るはずだった! なぜ実行されなかったのか、歴史をたどる

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高島屋が新宿進出を模索した最初のときは「昭和20年代」だったことは、あまり知られていない。

浜野家vs堤家

タカシマヤタイムズスクエア(画像:写真AC)
タカシマヤタイムズスクエア(画像:写真AC)

 ここで牧野は

・利権の対象にしない
・中小企業を圧迫しない
・公共性のあるものにする

の三原則を掲げて高島屋、伊勢丹、地元、さらに西武も加えて1本にまとまろうと呼びかけた。こうして、西武新宿線も乗り入れる構想を加えて、新たな新宿駅舎建設のプランが出来上がった。

 しかし、まだ問題はあった。浜野家と堤家があだ同士だったのである。

 その理由は、初代浜野のときのことだった。関東大震災(1923年)の直後、五島慶太(東京急行電鉄の事実上の創業者)が新宿の土地を独占する初代浜野に

「堤康次郎がやりたがっているから任せたらどうだ」

と勧めた。

 これを受けて堤が建設したのが、現在の新宿5丁目付近にあった遊園地「新宿園」(1924年開園)である。ところが、「第二の浅草」にするというもくろみは外れ、客足はサッパリ伸びなかった。数年で新宿園は閉鎖されたが、このときに堤は権利金を一切払わずに踏み倒していた。そのときも、仲裁に入ったのが牧野だった。

 今回も牧野は改めて談判を続けて、両家の関係を修復、かつ伊勢丹や地元商店が危惧していた西武のデパート出店は行わないことまで確約させている。

 こうして1958(昭和33)年に「新宿交通文化センター株式会社」が設立、その後名称は「新宿ステーション・ビル株式会社」とされ、駅舎は1964年に開業した。出店を断念した高島屋だが、株主として経営に参加する形にはなった。

 ただ、ターミナルデパートを手に入れるという夢が破れたことは悔しかったのだろう。当時の高島屋専務だった飯田新一は、こう話している。

「大体五島慶太流に強引にやってしまえば、あそこに高島屋を作ることもできたと思う。少しウチは紳士的すぎて損をしているような所がある」(「週刊文春」1959年9月21日号)

 もし強引に出店していれば、今とは全く異なる風景が新宿にはあったのかもしれない。

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