タイムズスクエアでおなじみ「新宿高島屋」 本当は駅ビルに入るはずだった! なぜ実行されなかったのか、歴史をたどる

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高島屋が新宿進出を模索した最初のときは「昭和20年代」だったことは、あまり知られていない。

鉄道会館への入居を断った高島屋

タカシマヤタイムズスクエア(画像:写真AC)
タカシマヤタイムズスクエア(画像:写真AC)

「新宿にある高島屋」といえば、大抵の人は新宿駅南口の「タカシマヤタイムズスクエア」を思い浮かべるだろう。同施設は1996(平成8)年に開業した、新宿南口のシンボル的存在だ。

 そんな高島屋が新宿進出を模索した最初のときは

「昭和20年代」

だったことは、あまり知られていない。

 戦後復興を迎えた時期、高島屋は駅ビルを利用したターミナルデパートの出店を模索してた。渋谷には東急が、池袋には西武がそれぞれデパートを開業し、沿線住民を顧客としてにぎわいを見せていたからだ。

 1951(昭和26)年、高島屋にターミナルデパート出店を最初に持ちかけたのは国鉄だった。この頃、国鉄では東京駅八重洲口の外濠川を空襲のがれきで埋め立てる再開発を計画していた。

 当時建設されたのが鉄道会館(2007年閉館、現グラントウキョウ)だった。国鉄は会館の建設にあたり、高島屋に出資して入居することを打診していた。ところが、高島屋はこれを受け入れなかった。なぜなら、本拠地である日本橋から近すぎたためだ。

 そこで高島屋が目を付けたのが、発展しつつもまだターミナルデパートのなかった新宿だった。そこで交渉したところ、国鉄では「民衆駅」として新宿駅を建て直したい意向であることが明らかになった。

 民衆駅とは戦後、大いに流行した鉄道駅の建設方法である。戦争による被害が大きかった国鉄では復興を進めていたが、駅舎まではなかなか予算が回らない。そこで、駅舎を民間出資で建設させ、そのかわりに一部に民間を入居させるという仕組みを使うことになった。

 東京ならば秋葉原、池袋、高円寺など。地方では札幌、福井、宇都宮など多くの駅が、この方法で作られた駅である。

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